44 伊流の競馬山

 明治の中頃、競馬に参加した馬が50頭にも及んだという競馬場が、大字五味ヶ谷字伊流にあった。そこは当時、五味ヶ谷の素封家滝島慶次郎氏所有の雑木林で、生来馬好きな氏は伊流の山林を切り開き馬場を作ったのだという。馬を飼うことが好きな位だから、駿馬を飼い極めて行き届いた世話をしていたのだと伝えられている。

 明治初期における馬の数は、『郡村誌』によれば9頭となっており、農家戸数から見て一般的な頭数であった。

 だが明治年代中頃に入り、競馬を開催するようになると、飼養頭数も急増したようである。

 五味ヶ谷村で建てた馬頭観世音菩薩に記されている文字に、馬頭観音講中32人となっているのを見ても、元々五味ヶ谷村中心に近接の村々で少なからぬ馬が飼われていたことがわかる。隣接する川越市天沼新田にある馬頭観音にも五味ヶ谷村講中の文字が見られる。五味ヶ谷に駿馬が輩出し、更には競馬開催地とまでなったことの素地は、当時からあったであろう。

 伊流の競馬山での競馬には、各地に呼び状(参加案内状)を出したので、出走馬数10頭に及んだという。勝馬にはボンボン時計等の賞品が与えられ、遠く熊谷方面からも出馬したといわれる。また、逆に熊谷競馬には地元の馬も出馬し、伊流の競馬場の所有者である滝島家の馬は、いつも関脇か大関であったと、滝島家に語り継がれている。

 「私の子供の頃には、大釜で湯を沸かし、たらいで馬の脚を洗ってやったりした。競馬の際には生玉子を15個から20個位食べさせたり、もち米がゆをやったりして馬に力をつけた」と、滝島老は語っていた。

 この時代には相撲番付のような用語が使われ、一般馬は前頭で小結・関脇・大関とあったという。熊谷まで行って関脇・大関をとったことは、中々の優駿であったことを物語っている。

 また、上岡(東松山)の観音様の縁日には乗り鞍(くら)を飾り馬の脚に鈴を付けシャンシャン音を立てながら参詣したという。

 伊流の競馬山付近は、昭和15年(1940)坂戸飛行場となり、戦後は開拓地から一転して開発計画地となり埼玉県のセット開発がすすめられ、今は東上線若葉駅を玄関として異例の発展をとげ、かつての奥深い山林の面影は何一つとして残っていない。競馬山は、近代的住宅と舗装道路の下に埋没してしまった。