江戸時代の後期、京染や口紅・漢方薬(血の道、産前・産後、等の婦人用薬)の原料となる紅花が、三ツ木村・脚折村(現大字三ツ木・大字脚折)等で商品作物として栽培されていた。
上尾宿の紅花商須田家日記(『紅花取引帳』)には、三ツ木村中里外数名と取引したことが記され、脚折の田中家文書の中にも、紅花に関する日記(安政4年(1857))が残っている。また聞取調査によっても紅花のことが古老の口から聞ける。
徳川時代に、8代将軍吉宗が四木(桑・茶・椿・漆)三草(紅花・麻・藍)の栽培を奨めてから、それらの生産が急増しているという。明和・安永の頃というから、240年前のことである。鶴ヶ島市で紅花を作ったことが判明しているのは、160余年前の安政の頃であり、須田家日記はこの地方の紅花銘を「西山」と呼んでいる。
須田家日記より関係部分を抜粋してみる。
安政五年七月十二日 西山紅花荷分け
安政五年七月十三日 西山七五―七七両
安政五年七月二十五日 西山両に三四〇―三九〇匁
安政五年八月八日 西山紅花七〇両前後
地廻り紅花五七―五八両
中上 五四―五五両
最上 五〇―六〇両
水戸 七二―七三両
安政五年八月十五日 広谷村より紅花一駄
(安政4年(1857)の田中家文書には、1両につき420~540匁とある)
西山(坂戸・鶴ヶ島を中心とした地域)産の紅花は、他の地方の物より良質で、価格も15~20%高かったようである。
近在の仲買人としては、平塚新田村(川越市平塚新田)と亀久保村(ふじみ野市亀久保)の2人が、日記から窺い知ることができる。
秋蒔いて翌年5月頃花を摘みとる紅花は、換金作物として極めて貴重なものであり、農民は紅花作付を担保に金を借りたり、紅花を売って借金を返済したりした。紅花は商品作物の名にふさわしいものであったといえよう。
江戸時代の終るや、化学染料が輸入され、中国産紅花も安く大量に輸入されるようになり、国内産紅花は減少し、養蚕・薄荷等に転作されたと伝えられている。