48 高倉「小屋」の砦跡

 高倉の字小屋の山は、今から520余年前古河の足利氏が砦として陣した所といわれ、字中谷と小屋、及び字三輪と小屋との間には深い堀割がなされている。また、東西に走る土塁の跡も、明らかにそれとして残っている。80~90年前までは、土塁の高さが3m位あり、土地の子供たちが兵隊遊びをしたという。昭和7~8年頃には、鶴ヶ島青年訓練所射撃場として、訓練生が軍事教練のうち射撃訓練をした場所でもある。高い土塁は危険防止の役割を果たしたのであった。

 小屋からは中世遺物土器が出土しており、縄文・弥生時代遺物等も含め、埋蔵文化財の宝庫でもある。

 『入間郡誌』には、高倉砦跡に関して、「高倉の東部坂戸街道の西一二町にして、東西に土居の跡あり。頗る(すこぶる)廃頽したれども、一部明に弁ずべし。明応四年十月古河の足利政氏上杉顕定を援けて高倉に陣せしこと新撰和漢合図に見えたり。思ふに此処は政氏の拠りし処ならん。」とある。また「明応五年五月足利政氏柏原に陣せしと見えたり。けだし政氏の此処(高倉)に陣せしは相模地方より来て川越を援けんとしたるものを遮断せんためなるべし。」とも見える。

 この砦跡は、室町時代のものであろう。