52 筆子之碑

 吾が国における近代教育は明治5年(1872)に学制が発布され、続いて「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」学事奨励に関する大政官布告がなされた時より始まる。この当時はしばしば寺院の本堂広間等で教育がなされたものである。鶴ヶ島小学校は明治8年(1875)設置されたものであるが、未だ校舎はなく寺であった。鶴ヶ島で最初の校舎は、明治30年(1897)に建築された。学制は男女6才より義務教育4ヶ年であった。

 このような一連の教育普及方針が整う以前の庶民教育は、学識ある者の所に行き学問を修めたのであるが、彼らを筆子とよび門弟ともいった。幕末から明治の教育体制が整備される迄の、教育内容の一面は、いわゆる「筆子の碑」によって知ることができる。

 例えば、大字大塚野新田馬橋家に、筆子中が報恩のため建てた筆子の碑は、後年筆子達が成人し、師への恩情おさえ難く、その徳を讃えるため明治23年(1890)に門弟たちが相はかって建てたものである。この碑は、昭和15年(1940)坂戸飛行場建設のため大塚野新田が字を挙げて脚折北部地区に移った時、脚折に移転されている。

 馬橋家の保教は、170余年前の弘化の頃より隣村子弟に学問を教え始め、嘉永、安政、萬延、文久、元治、慶応の年代を経て明治初期迄それは続けられていた。馬橋歌次郎保教、馬橋定次郎保致と、2代にわたり大塚野新田村、戸宮村、関間新田村、片柳新田村、塚越村、青木村その他村々の子弟教育に力を尽し、門弟数百人に及んだと今に語り継がれている。今馬橋家庭の植込の間に建つ「筆子之碑」には、

    土台石 高さ1尺5寸(45cm) 幅3尺8寸5分(115cm)

    碑の高さ5尺3寸(160cm) 幅4尺3寸(130cm)

    正面文字 報徳筆家之碑

    碑面概歴記載

    土台正面文字 筆子中

と刻され、碑裏面には門弟103名、発起人2名、世話人13名の名が記されている。

 学制の布かれる以前の教育のあり方が偲ばれる、貴重な教育史の一端である。筆子の碑は大字脚折・大字三ツ木にも見られる。