明和の遠い昔から、夕闇をついて出る天台宗慈眼山満福寺の鐘の音は、近郷近在のむら人の生活のリズムを長い長い間守り続けて来た。
江戸の時代から明治・大正へと鐘はつかれ続けた。むら人に昼を知らせ、夕暮の時を告げたこの鐘の音は、時計の極めて少い時代、人々の生活に大きい役割を果たした事であろう。
土地の人々にとって、親から子へ、子から孫へと数代にわたり馴染(なじみ)深かった梵鐘は、戦時中金属回収国民運動により、蚊張の吊手金具・火鉢・鉄骨火の見櫓(やぐら)と同様、金属資源として昭和18年(1943)1月18日を最後に熊谷の金属回収統制株式会社指定商に運ばれたのであった。釣鐘の供出であった。今、満福寺に残る梵鐘に関する故大谷真等師の記録を略記してみよう。
梵鐘 明和元年鋳造(1764)
材質 唐金
重量 111貫匁(416kg)
高さ(龍下り中心より) 3尺8寸8分(1m17cm)
廻り(最下) 7尺1寸6分(2m17cm)
外経 2尺3寸2分(70cm)
龍の高さ 9寸5分(29cm)
上の廻り 5尺1寸5分(1m56cm)
末尾には、交付金290円と、釣鐘の代金に相等する金額が書かれている。太田ヶ谷から熊谷までの運賃は、馬力で5円であった様である。
今、満福寺には、2代目とも言うべき梵鐘が吊され彼岸、盆には先代の鐘の音を引継いでいる。特に除夜に打つ108の鐘の音は、人間の持つ108の煩悩を鐘をつくことにより覚まさせるのだという。今も人々の幸のために鐘はつかれている。