63 石橋供養塔と道しるべ

 大字太田ヶ谷中央から字新田を経て笠幡へ通ずる道を東へ進むと、字大橋に入る。ここの三叉路に石橋供養塔が建立されている。台石の上に高さ69cm(2尺3寸)幅24cm(8寸)の石塔が立ち

  正面  石橋二十箇所供養塔

  向右面 願主 内野

         應◎ (◎→深)

      助力太田ヶ谷村中

  向左面 寛政二庚戌八月佛日

と刻まれている。今から190年前に、太田ヶ谷村の内野氏と満福寺の寺僧応深が願主となり、太田ヶ谷村中が助力して建立したものである。内野という願主は、当時太田ヶ谷村において極めて実力を有した者であったろうと考えられる。また、太田ヶ谷村の石橋は、当時20箇所に掛けられていたことがわかる。

 隣村三ツ木村のものは、高麗郡三ツ木村中と記されている。その願主は三ツ木村慈眼寺の古文書によると住僧覚慶とあり、両村の願主に寺僧の名が見られる。その昔板碑を石橋として掛け置き、後年石橋供養塔を建立したのであろう。(慈眼寺古文書による)

 この太田ヶ谷の供養塔に道しるべが書かれている。

  正面右  「東 川こえ道」

  正面左  「南 江戸道」

  右側面  「北 さかど道 おがわ道」

  裏側   「西 古まさんのふ道 子の古んげん道」…(子の権現様)

と記され、奥深い樹林の中で風雨に耐えて旅人のよい道案内として遠い昔より今に至っている。

 今はかつての供養塔や道しるべのあった場所は地域開発による川鶴団地の造成が進められ、樹林も道路もすべての物が団地造成の中に溶け込んでしまっている。そこに建っていた石橋供養塔は、太田ヶ谷満福寺境内に移され山門の影にひっそりと佇(たたず)んでいる。遠い日旅人と交した話も昔物語りとなり、今は静かに時世の流れを見つめていることであろう。