明治時代、太田ヶ谷村には、持ち馬を村内の街道で走らせる競争をしたという、通称鉄砲馬場があった。
当時、太田ヶ谷村向の通称お寺山より100m位南にゆき左に曲ったところから、道幅5~6mの直線の街道が天沼新田村馬頭観音※の南端に走っていた。この街道は約1,000mあり、鉄砲馬場とよび今に伝えられている。現在この地域は、住宅公団川鶴団地として造成され、昔日の面影は消え失せてしまっているが、その頃には太田ヶ谷村を中心に隣接の村々の農耕馬による競走が行われていた。馬持ちの娯楽競技で、太田ヶ谷村の人々が主催者となり各村に参加を呼びかけ競馬をしたのであった。
勝馬には賞状と賞品を与えたという。鉄砲馬場は農耕庶民の遊技的色彩を持ち長く続けられたと語り継がれている。
日本の競馬レースは、今から160年前文久年代に始まっている。当時の馬場は鉄砲馬場(直線コース)であったことが語られているが、後に英国式に円形左廻りとなり150余年前慶応年代に右廻りになり、更に現在は左廻りが一般となっている(文献参照)という。
※:県道川越越生線沿い川越市天沼新田県道南側に祀られている。