玄米・玄麦の精白を立臼に入れて杵で手搗(てづ)きした時代は長く続いたのであるが、後に足で杵(きね)をふんで搗く「じんがら臼」ができ、またこの頃川の水を堰(せき)から取り入れ水路を通した水の力で搗き物をする水車も始まった。じんがらも水車も原理は同じ様なものだが、人間の足を使うか水力を使うかで分れた。河川の流域では豊富な水を利用して水車が発達したが、天然水利の供給に不安定要素を持つ地帯では水車はあまり普及しなかった。
こうした中にあって、脚折には部落共有の水車小屋があった。高倉の池尻池から流れてくる飯盛川を、和田橋の下流より堀割に分流して、流水の落差を利用して水車をまわし、精米・精麦・製粉をしたのであった。堀割は、通称たちう堰の所にある水門から、厚板製の幅3尺(90cm)位深さ1尺5寸(45cm)位の箱型水路が水車小屋まで続いていたという。飯盛川の分流する堰下で子供達がよく水遊びをしたものだと、脚折の古老は語っていた。
明治年代から大正年代初頭まで共有水車は利用され、極めて貴重な施設であったと言う。水車小屋には杵が6本あって稼動(かどう)し、利用には水車組が作られ交代に使用された。水車組は8戸編成で、昼4戸夜4戸の順で利用されたのであった。手車で水車小屋まで搗物を運ぶ砂利道は水車道と呼ばれた。この道の砂利引きその他は、一切地元民が整備したと言う。また水車小屋の維持管理に要する費用は部落費で賄(まかな)ったとのことである。
こうした相互扶助の組織も、機械の発達に伴い、いつしか水車小屋を消してしまった。今はかつて飯盛川から水を引いた堀も埋立てられ、車堀を知る人もわずかとなっている。