江戸時代、脚折村二反田に通称お寺山と呼ばれた所があり、そこに相撲場があった。そこには5~6尺(1.5m~1.8m)もする立松が3本あったので、〆松の相撲場という名で土地の人々に知られていた。
相撲場は高さ1尺5寸(45cm)位で、四角形に土盛りされ、その中に円形の土俵があった。その土俵跡は戦前まであったが、戦時中食糧確保のため開墾されて作付がなされ姿を消したのだと、大正年代から昭和にかけて素人相撲で「お茶の里」という四股名(しこな)を持っていた土地の斉藤老は語っている。土地の言い伝えでは、近くの片柳(現坂戸市片柳)の相撲場で相撲興業した江戸の力士が、帰途の路銀稼ぎにお寺山相撲場で相撲をしたのだと言う。
また、この相撲場で、詮議(せんぎ)をうけた事件があったと土地の人々に口伝えされているが、遠い時の流れに隔てられ実情は定かでない。
明治から大正年代、この〆松付近から1本しめじが多く出たと言う。土地の人や坂戸の人の中には、そのしめじを食べて中毒した人もあったらしい。そうした関係で相撲場付近が話題の種となり相撲場の名が後世に残り、それにまつわる伝承も土地に残されている。
今は、脚折北部区画整理区域内のため、伝承の相撲場も〆松の名も整理地区の中に埋没してしまった。