75 第二鶴ヶ島尋常小学校発祥の地、正音寺

 大字上広谷にある真言宗広谷山正音寺は、『郡村誌』に「弘治元年正月開山僧専営開基本村岸田正春」とあり、今から470余年前の創始である。また、ここには薬師如来が祀られている。中武蔵七十二薬師のうち13番薬師と定められ、安永5丙申(1776)2月に札番と御詠歌が定められている。今から240余年前のことで、御詠歌は、

  「村の名の広きや瑠璃の誓かな御代の佛はいづれながらも」

と歌われ、鶴ヶ島五薬師の1つである。上新田長福寺・高倉高福寺・脚折善能寺・藤金法昌寺と共に今も、寅薬師には巡拝する者が多い。

 明治17年(1884)脚折村・高倉村・下新田村・中新田村・上新田村・町屋村・三ツ木村・太田ヶ谷村・藤金村・上広谷村・五味ヶ谷村・大塚野新田・戸宮村・三ツ木新田の12ヶ村、2新田が連合して上広谷連合戸長役場がつくられた時、脚折村善能寺を鶴ヶ島学校とし、ここ上広谷正音寺は、上新田村長福寺と共にその分教場として定められ仮用された。つまり、当時の上広谷連合の教育拠点は、中央が善能寺、東部が正音寺、西部が長福寺、計3ヶ所あったのである。

 上広谷村正音寺の分教室へは、藤金村・上広谷村・五味ヶ谷村の3村の児童が通学したが、深い山林を通らねば分教室に来ることが出来ない大塚野新田・戸宮村の児童は区域外に通学していた。

 明治22年(1889)町村制が施行されるや、旧来の12ヶ村、2新田が1つとなり新たに鶴ヶ島村が出来た。そしてこれまでの村は大字と呼ぶ様に変っていった。この時鶴ヶ島村の人口は、3,231人、戸数は569戸であった。その後明治25年(1892)6月大字上広谷正音寺分教室は、第二鶴ヶ島尋常小学校設置認可により独立した学校となった。義務教育は4ヶ年で生徒数は30名位、立机で腰掛使用、教員数3名だったと地区内の当時89歳になる翁は語っている。

 明治26年(1893)になり、義務教育は6ヶ年に改められた。

 大字上広谷正音寺仮用の第二小学校は明治33年(1900)まで続いたのであるが、この年大字五味ヶ谷立堀216番地に校舎が1月起工10月落成し、正音寺の児童は新校舎に移動したのである。この新校舎は概要左の通りである。

    第二鶴ヶ島尋常小学校

  間口16間半(30m) 奥行4間半(8m) 74坪2合5勺(245m2

  建築費 金1,817円

  敷地 725坪(2400m2)、買収価格 金217円50銭

 新校舎ができるや、区域外通学児童である大字大塚野新田・大字戸宮の者も新校舎に通学し始め、初めて第二小学校は名実共に東部全域教育の場となったのである。

 大正年代を過ぎ、くだって昭和7年(1932)における第二小学校の規模は左の通りである。

  尋常1年 32名

  尋常2年 23名

  尋常3年 23名

  尋常4年 26名

  尋常5年 31名

  尋常6年 21名

   計  156名

  学級編制

  尋常1年2年

  尋常3年4年

  尋常5年6年

  計 3学級 複式編制

    訓導兼校長1名

    訓導   1名

    代用   2名

 この時の村勢は

    人口4,651人

    戸数 754戸

 正音寺仮用の学校は、長い期間にわたり、東部地域児童教育の場として極めて多大な貢献を果したのであった。この当時の第二小学校も、後に地域構造の急激な変化に対応しきれず鶴ヶ丘に移り、その跡は現在、東市民センターとなり市民教養の場として使われている。

 明治教育につくした上広谷正音寺は、東部地区教育発祥の地として極めて重要な意義をもつ遺跡である。