78 天王様とだるま

 上広谷北精進の一角に八坂神社、白山神社の合祀された神社がある。八坂神社は牛頭天王(ごずてんのう)(素戔嗚尊(すさのおのみこと))が祀られ、今も天王信仰の行事が引継がれ、毎年7月15日に祭礼がなされている。また白山神社例祭は4月23日で、昭和12・13年頃までは脚折池の台のお神楽を奉納したという。

 八坂神社の本社は群馬県新田郡世良田にあり、70余年前までは代参人2名、今では10名が代参にゆき、御魂うつしの修祓(しゅうふつ)をして帰り天王様の行事を行っている。70余年前までは氏子がみんな農家だったので、初なり胡瓜(きゅうり)は八坂神社(天王様)に供えてから食べるのだという習わしがあった。これは、天王様の御紋章と胡瓜の輪切りがそれに似ているので、胡瓜は御紋章として初なりを供えるのだという。こうしたかかわりで天王様前に胡瓜は食べないという習慣があった。だが地域の大きい変化により店頭に年間胡瓜が見られる現今では、長い間守られてきた風習も時代とともに風化してしまった。

 また7月15日に行う八坂神社の祭札天王様には、毎戸1名ずつ出て神輿(みこし)をかつぎ氏子を戸別にまわり疫病除けをして氏子の平穏無事を願った。戸別まわりは昭和25年頃まで続けられていたが、その後地域も大きく変ったので今では主要街路だけを神興が通る様に改められている。

 神輿は明治時代は塗物であったが、明治40年(1907)5月新しく作られ今に伝わっているのだと言う。神興かつぎは、昔は新しいシャツを着てしたが、今は祭礼用法被(はっぴ)でする様に変った。神興が戸別をまわった時代は戸別に祝酒が出たので終り頃は酔がまわり八坂神社へ神輿納めするのが大変であったと語り継がれている。

 更に天王様と達磨のかかわりが氏子にあると言う。古来より八坂神社の氏子は達磨を禁忌したと伝えられている。その発端はさだかでないが、習として土地に定着し守られて来た。今から100年位前、天王様の神輿かつぎの時鉢巻に達磨の絵手拭を使ったところ、その年秋疫病が大流行して氏子4名が亡くなると言う大事が発生した。氏子は驚き協議して例年2月15日に行うふせぎ行事を臨時に行い、厄払いして氏子の災難をよける様祈ったのであった。この事があって以来氏子は昔からの言い伝えを再確認し、達磨を飾ることも買うことも禁物だと言う様になり何時(いつ)しかこの風習が定着して長い間この土地から達磨は姿を消したと言う。今では社会生活の変化で長い間の習慣も忘れ去られているとの事である。

 天王様に御輿(みこし)をかつぐのはどこも同じだが、ここに様変りの天王様のあることを付け加えたい。大字町屋と氏神を1つにしている接続地、坂戸市四日市場に古くから伝わる天王様行事である。その起源は定かでないが、この土地に120余年前の明治29年(1896)頃疫病が流行して、子供や大人が1度に10名位亡くなったことがあるという。当時四日市場には諏訪社と八坂社が祀られていた。古くから獅子舞行事がなされていた様に見られるが、これを知る者は今はいない。だが獅子とお諏訪様は性が合わないのだと言う占者の話により、黒塗りの獅子は疫病で多くの人が亡くなった時点で土中に埋められたのだと土地の古老は語っている。この時悪疫退散、家内安全のためにした獅子舞行事は廃絶となった。それから人々は、八坂社の行事として天王様をして、土地の平穏無事を祈る様になったのだと伝えられている。

 この天王様は、土地の子供達が主体で「小麦から」を各家々から集めて高さ1m30cm位、直経70~80cm位の円筒形状の御輿は、明治時代から守り続けられ今に引継がれ、毎年7月15日天王様はなされている。

 麦から御輿(神社当番がつくる)を毎年つくり最後に川に流す、ここ四日市場の天王様は特異なものである。上広谷の天王様とだるまとのかかわり、麦から御輿の川流し、いずれも特質が代表される民俗行事であろう。


※:ふせぎ 獅子頭を持って毎戸をまわる災難よけ行事。