大字五味ヶ谷字鶴巻の道路沿木立の中に、石造りの鳥居が立っている。ここをくぐり抜けると、奥まった木立に囲まれた中に社殿がある。ここ平玉大観現は、天保の頃には五味ヶ谷村・上広谷村・下広谷村の惣氏子中27軒により信仰されていた。江戸時代から今に至るまで足・腰の守護神として崇敬されている。
明治22年(1889)町村制が布かれた時、下広谷村は名細村(現川越市下広谷)となり、上広谷村は大字上広谷、五味ヶ谷村は大字五味ヶ谷となり、その時から今のように五味ヶ谷の神社となったのであろう。創立は定かでないが、鳥居は190年前に建てられたものである。昔権現信仰の盛んであったことが、社前に奉納されている履物、鉄わらし、鉄鳥居、絵馬等によって知れる。
生活様式の変化した今も、新品の大人用白ズック靴や、雪駄(せった)が昭和54年(1979)大願成就の札付きで社前に奉納されてある。
これから権現信仰の現在も盛んであることが裏付けられる。明治年代は、五味ヶ谷中の子供が社殿(8畳位)に集まり、神前で学業向上の願いをこめて書初めをしたと、高校の校長を長く務めたことのある古老は語っている。
石造り鳥居
鳥居高さ 2m37cm(7尺7寸9分)
鳥居台座 42cm
鳥居にある文字 「于時天保二辛卯十一月吉祥日
上広谷村
五味ヶ谷村 惣氏子中 二拾七軒
下広谷村
世話人 小島伊右衛門」
鳥居の建立は、今から190年前である。拝殿前庭には、蚕霊神社・稲荷神社の2社が祀られている。蚕霊神社は農家の産業である蚕の神、即わち富貴の神として今に至り、また稲荷神社は、稲荷信仰により悪魔祓いの神、五穀の神として崇敬され、繁栄を祈る信仰から現在も報賽(ほうさい)白狐が16体奉納されている。