江戸時代には村内各所に修験者がいた。上新田の永言坊、下新田の愛宕大権現等の石碑にその名が見られる。脚折池の台にある三上、池野、林家等も修験の家筋であった。
修験者は、修行して祭祀を司っていたので、人々はその力を頼み、脚折のほとんどの家が正月には荒神祀りをしてきた。文献に「荒神は最も不浄を忌む。然るに、火は其の体清浄にして、而も不浄をはらうものなれば、家にありては竃(かまど)を棲居とし玉う。」とある様に、荒ぶる神、たたりやすい神として信仰される荒神は、家の台所や囲炉裏柱に棚を作りそこに三宝荒神を置いて祀られた。竃(かまど)は身近であると共に暮しに必要欠く事のできないもので、竃の神・火の神として荒神は丁重に祀りごとがなされて来た。
荒神祀りは、一般的に正月に御幣を立てお供え物をして祀り、また団子正月には団子差しをして、その年の平穏無事を願う、という形でなされてきている。
ここ脚折に於ては、正月になると池の台の修行者がほとんど全戸の三宝荒神祀りをしてきた。荒神は3つの顔を持っているので、赤・青・黄、と3色の紙を重ね切りして、3本の御幣にし、それを巻藁(まきわら)に立て、祈願が終ると荒神様の棚か鴨居に付ける。家により様々だが、これが三宝荒神祀りの基本的な形である。祭祀を司る行者は家から家へと荒神祀りをして、正月中に脚折ほとんどの家を祀り終え、そうして脚折中の平穏無事を願った。
脚折の三宝荒神祀りは、50年前まで続けられていたのであるが、祭祀を司る者が物故した後はこの行事も終っている。