明治年代に、脚折には花火の技術を身につけた者が多かったと言う。鶴ヶ島で、脚折の花火と藤金の花火は双壁だったと語り継がれている。藤金のものは打上主流で仕掛も行い、脚折は打上天龍の吊笠が主流であったという。中でも早打の牡丹天龍の吊笠が得意で3階、5階の吊笠は極めて妙味のあるものであったと古老は語っている。花火は明治後期まで作られ、脚折の寿の丸(寿)の花火は見事なものであったと言われる。
花火は、出来上ると試しの打上げを行ってから本番に臨むものだという。吊笠の段物は、正確を期さなければ本番で妙技が被露出来ないので、特に念入りな準備が必要なため容易でない苦労がつきまとうものだとされている。
土地に伝わる花火打上げ口上は、
「トーザイ トーザイ 煙花玉名なり。
首尾よくまいりますれば、
黄・赤・紫、三色三天龍、三階の吊り笠。」
であった。口上通り打ち上った時は、快心の作として見物人に深い感銘を与えると共に、煙火師冥利につきるという。
苦心の作品がわずか数秒で判断されるので、常に創意工夫が大切であると語られているが、反面、花火ならではの醍醐味もあると言われている。