84 脚折の庚申塔と馬頭尊

 『道祖土来 越生坂戸両街道の合す所に近く、小塚あり。昔正月十五日脚折中の門松飾等を集め此所にて之を焚し、塞祈を祭れりと云ふ。俗に之をドンド焼と云ふ。即才道木にして塞土来又は道祖土来ならんと云ふ。』と『入間郡誌』に見られる。この塚は260年の間、見まい、聞くまい、話すまい、があるという話題の場所でもあった。

 高さ約3mのこの塚には、かしの木や杉が茂っていた。そしてその下に、三面六臂(ぴ)の相をした馬頭観音菩薩と、中央の手が合掌、右手に剣、左手に宝殊、下の右手に矢を左手に弓を持っている青面金剛菩薩とが佇んでいた。

 青面金剛菩薩の彫られている石塔は庚申塔である。この庚申塔の台座には右に目をかくした猿、中央に耳をかくした猿、左に口をかくしている猿がいる。この三猿の姿を、見ざる聞かざる話さざるとか、見まい聞くまい話すまいと言って来たのである。尊像は邪鬼の上に立っており、両端には向き合った鶏、右メス、左オスが小さく彫られている。

 中国古代の道教に、干支の庚申の夜に人が眠ると体の中の「三尸(さんし)虫」がその人の日頃の罪を上帝に訴えて命を短くするとの説がある。日本の庚申信仰はここからきていると言われ、後に、庚申の日には徹夜して過ごすという庚申講も行なわれた。江戸時代までは、庚申の日には炒豆(いりまめ)を食べ、女は針仕事を持たず、この夜妊娠する事を嫌ったという。

 庚申塔は路傍に祀られ、道祖神の性格ももっていた。戦前までは病気・商売繁昌・家内安全の願いをこめ、庚申前には色々な供物があったと言う。4月16日が縁日と定められ、神官をたのみ祭祀が行われ、所在地才道木の人達だけで庚申日待をしていたが、戦時中日待を休止してからそのまま今に至っている。

 戦後、県道改良工事のため塚は平にされ、庚申塔、馬頭尊はJAいるま野鶴ヶ島支店前の市道沿に移し祀られている。

    庚申塔

  奉供養大青面金剛童子 武刕高麗郡臑折村

  宝暦十庚辰八月吉日 惣村講中 願主平野助右衛門

  高さ1m17cm 体幅45cm 台座45cm角石

 これと並んで240年前建立された馬頭観音は、脚折村の馬の病気回復と安全を祈願したものであろう。

    馬頭観音像

  碑面「馬頭観世音菩薩

     安永十辛丑三月吉日 臑折村中」

  高さ1m17cm 体幅45cm 台座前61cm 横59cm角石

 周囲は垣をめぐらし、清掃、護持されている。

 また、脚折字針売通称無線(運輸省航空局坂戸受信所)入口の市道沿に、才道木の庚申塔と同じものが建立されている。

    庚申塔

  高さ1m11cm体幅44cm

  台石は土中に埋没している。

  碑面「奉造立為青面金剛像 二世也

     元禄六癸酉天二月吉日武刕高麗郡臑折村施主覚宝院」

 下部に平野・高沢・町田・花井・町田・高沢・柳川・新井・斉藤・平野・新井・斉藤・岸・13名の氏名が記されている。320余年前に建立されたもので、脚折で最も古い野仏である。


追記

 脚折字針売通称無線(運輸省航空局坂戸受信所)入口の市道沿いにあった庚申塔は、現在、脚折6丁目地内の善能寺に移設されています。