87 明治の鶴ヶ島学校

 大字脚折の真言宗安養山蓮華院善能寺は、明治8年(1875)鶴ヶ島学校が設置された時の学校遺跡であるとともに、現在の鶴ヶ島第一小学校の前身でもある。明治初期にできた『郡村誌』に「公立小学校、脚折村の東北善能寺を仮用す 生徒男一九人女三人」と記されている。

 明治17年(1884)脚折村・高倉村・下新田村・中新田村・上新田村・町屋村・三ツ木村・太田ヶ谷村・藤金村・上広谷村・五味ヶ谷村・大塚野新田・戸宮村・三ツ木新田が連合して、上広谷連合戸長役場ができた時の教育機関は、脚折村善能寺にある鶴ヶ島学校を本校とし、上広谷村正音寺・上新田村長福寺をそれぞれ分教室として、義務教育4ヶ年の教育がなされた。

 その後明治22年(1889)憲法発布、続いて町村制が施行され、上記12村、2新田が1つになり、鶴ヶ島村ができた。当時は人口3,231、戸数569が村勢で、役場としては大字脚折の町田宅離れ家屋が使用された。明治25年(1892)6月、上広谷正音寺の分教室は、第二鶴ヶ島尋常小学校として独立した。明治26年(1893)より義務教育は6ヶ年に改められたが、学校は校舎のないままであった。

 明治30年(1897)11月、脚折才道木に第一鶴ヶ島尋常高等小学校校舎が新築され、鶴ヶ島村で最初の校舎での教育が始まった。これから3年遅れて明治33年(1900)10月、上広谷正音寺にあった小学校は、五味ヶ谷字立堀に第二鶴ヶ島尋常小学校として新築された。

 この当時、学校建築については、各大字の寄附金、有志寄附金が寄せられた。学区内の特志寄附からは、一小、二小を問わず、村民の教育に対する情熱が窺われる。

 脚折善能寺は、鶴ヶ島市教育発祥の地としても極めて貴重な遺跡であるが、この寺の前庭には地方的にあまり見かけぬ古木がある。その名を菩提樹(ぼだいじゅ)といい、幹廻り1m4cm、樹高7m(植替、整枝2回)樹令240年(造園業者推定)と言われる。

 お釈迦様は、菩提樹の下で修行され悟りの道を開いたのだと今に語りつがれており、仏道に深いかかわりを持つ樹として、善能寺の菩提樹も由緒あるものである。極めて特徴的なこの樹は、葉の裏に花がさがり(6月15日頃)後に金平糖(こんぺいとう)形の実がつく。実の突起した部分は加工され、球形状にされて仏具「数珠」が作られるそうである。原産地はインドであると文献は示しているが、中国原産のものもあると言う。