大字五味ヶ谷字鶴巻の平玉(へいたま)権現境内に、木立の静けさに包まれて蚕霊(さんれい)神が祀られてある。この神社の創立は定かでないが、そこに立つ石の鳥居には「天保二年十一月」と刻まれてある。今より190年ほど前である。「上広谷村 五味ヶ谷村 下広谷村 惣氏子中二十七軒」の文字も見られる。蚕霊神信仰により村々の産業である養蚕の安全と隆盛を祈願してきたものであろう。
昭和に入るまでの蚕に対する考え方が、蚕を神格視したものであろう。昭和4年(1929)に書かれた記録帳に「養蚕(『神』の下に『虫』)記録」と書いてある。神の虫というあて字を蚕の意味で使っているのである。この当時は蚕を「おこさま」と呼んでいた。今もお蚕様の言葉は人々の口に残っている。
蚕霊神社は、富貴を祈る神であり、正月にはお供えを上げ、団子正月には繭玉さし(団子さし)をして作柄の安定と繁栄を祈った。これらの行事は遠い時代から今に至るまで、五味ヶ谷の人々によって守られて来ている。蚕も昭和初期までは、日本種と支那種の日支交配種、日1支4が白繭の主流で、形状は中央がくびれていた。当時は黄色い繭もあった。欧州種と支那種の交配種、欧7×支7の繭はだ円形で、これは豊作祈願の繭玉さし(団子さし)の時の団子の形にあらわれていた。丸い団子と、中央のくびれた団子との2通りをさしたのである。また、桑株を切ってその株に団子をさし、桑を食べた蚕がみんな繭になる様にと豊作を祈った。
ほとんどの農家の若者が家で養蚕をした戦前は、鶴ヶ島村は入間郡60余町村中収繭額第1位の養蚕村であった。こうした歴史の中に、蚕霊神社の存在は大きな意義を持っていたのである。
南上州の民話に「お蚕と衣笠姫」と言うのがある。玉の様に美しい日本一のお姫様、母が亡くなってから継母にしいたげられ馬小屋の中に閉じこめられ馬にふみつけられ、かわいそうに姫は背中に馬の足跡がついてしまった。それから次々としいたげられ、遂に庭の隅に掘られた穴に突き落されて埋められてしまった。爺さん婆さんが埋められた盛土の前に座り泣き悲しんでいた時、盛土の上に小さな黒い見かけない虫が沢山這っていたので、これを手にとるといかにもなつかしそうにうごめき出した。爺さん婆さんは、ひょっとすると衣笠姫の魂が生れ変ったのかも知れないと思い、その虫に色々な葉をやると、桑の葉だけを食べるので桑だけくれた。大きくなると口から糸を吐いてきれいな繭を作ったという。
今でも上州ではお蚕様といってだいじにして飼い、衣笠明神を祀っている。蚕の大きくなった背中を見ると馬の足跡の様な形が残っている。これは姫が馬小屋に入れられた時ふみつけられた、そのあとの名残りだと言う。蚕のふみつけられたあとは学名で斑紋をさすものである。
五味ヶ谷の蚕霊神社は、市内はもとより入間郡市でも貴重な存在であり、富貴の神として益々栄えゆくことであろう。
明治から大正初期にかけて、藤金氷川神社境内に養蚕神社が祀られてあった事が、古い記録で知られるが、高徳神社への合祀の時から藤金の養蚕神社はなくなっている。合祀の時、他の神々と1つになり独立した養蚕神社はなくなっているのであろう。