県道川越越生線を脚折方面より太田ヶ谷に入ると、かたわらに杉・ヒノキ・松、その他雑木の混在した森があり、昔からの武蔵野の面影を残している。この樹林の中に、鶴ヶ島村南東部地域の神社を1つにして大正2年(1913)6月に創立した高徳神社が祀られている。大正初期神社合併が行政的に推進された時、太田ヶ谷熊野神社、三ツ木白髭神社、藤金氷川神社、上広谷・五味ヶ谷の氷川神社が合併して現在の地に祀られたのである。
事の起こりは、太田ヶ谷・三ツ木・藤金の3社合併の話より始まった。新たに神社を3字の中心に位置する太田ヶ谷に建てる計画が固まりつつあった折、上広谷・五味ヶ谷の神社合併の気運が盛り上がり、三ツ木・太田ヶ谷・藤金・上広谷・五味ヶ谷の神社を1つにして新しい神社をつくる事になったのである。
敷地が一番問題であったが、太田ヶ谷の内野重右衛門翁より、敷地を太田ヶ谷にするについては私有地の一画を寄進するとの申出があり、7反7畝歩(7.7ha)の社地が確保されたのであった。
この当時創立神社名が話題となった。最初鶴ヶ島神社案があったが、他からの反論があり取りやめとなり、南鶴ヶ島神社名も話題にのぼったがこれも他から適当でないとの声があがった。結論として、多くの神社が1ヶ所に集まるので、神徳の高いのをたたえて高徳神社と社名が決定したのだと、地元の古老は語っている。
高徳神社は合祀されたそれぞれの神社が母地の方角を向いて建てられているという特長を持っている。中央に太田ヶ谷の神社が太田ヶ谷に向き、その左側に三ツ木の神社が西方三ツ木を向き、右側に藤金・上広谷・五味ヶ谷の神社が東方藤金・上広谷・五味ヶ谷の方向を向いて建てられているのである。
社殿は中央前方にあり、その東側には合祀記念碑が立ち高徳神社の由来書がなされている。社前鳥居の近くには、西側に彰忠碑があり、東側には神社創立について物心両面で貢献した故内野翁碑が建てられ翁の功績をたたえている。この神社の運営については、各大字から氏子総代が選出され、年行事(当番)は各字交代でことに当ると言う。
神社は、広汎な地域を氏子としている関係で、社前には名称同様に高徳を授けられる様入学の願いや就職のこと健康のことで多くの絵馬が吊されている。
鶴ヶ島市内神社として最も規模の大きい神社である。