鶴ヶ島第一小学校の西側、日光街道歩道橋近くの一角に巨大な石碑が立っている。碑には太文字で「田中省翁頌徳碑」「高橋是清※書」の文字が見られる。これは田中萬次郎の徳をたたえ、村民が建てた頌徳の碑である。
「地方公共事業ニ盡瘁(じんすい)セラレタル田中萬次郎翁ノ頌徳碑ヲ建立シ永クソノ偉績ヲ傳ヘ以テ世道人心ニ益スル所アランコトヲ欲シ」の一文は、大正15年(1926)1月5日第一小学校校庭に建てられたこの頌徳碑の趣意書に見られる。当時全村有志の発起で、金3,500余円の寄附をもって建てられたのである。この時除幕式には、村内70才以上の高齢者を招き盛大な敬老の会を催し、村民こぞって徳をたたえた事が記録に残っている。
田中萬次郎は、脚折の素封家田中家第16代当主として、弘化4年(1847)10月6日に生れ、昭和5年(1930)3月20日84歳で没するまで、鶴ヶ島村のため埼玉県下のために長年にわたり貢献した、鶴ヶ島が生んだ偉大な人材であった。
幼少の頃から漢学・書道・法学・武術を身につけ、行政面では明治12年(1879)32才にして16ヶ村(町村制が布かれる前の村)の連合戸長総代となり、明治16年(1883)36才にして埼玉県会議員となり、後に県会議長として県政につくした。
産業面では、明治20年(1887)埼玉県茶業連合会議長として茶業振興に努力し、村では農会会頭として地域産業の発展に大きい足跡を残した。
また経済面では、明治36年(1903)埼玉農工銀行取締役を経て頭取となり、県下金融行政、産業振興に尽力した。翁は書道に卓越したものをもち、鶴ヶ島村内神社の幟をはじめ、各家庭や近隣市町村の神社・寺・野仏等に多くの揮毫(きごう)を残している。鶴ヶ島村で建てた忠魂碑の「日清・日露・戦没忠死者」の英名は田中萬次郎の謹書である。
翁の地元鶴ヶ島をはじめとして、広く埼玉県下の行政・経済・金融・産業に貢献した功績は大きく、村民がその徳をたたえ頌徳の碑に報恩の気持ちを託したことは誠に意義深いものがある。
※:高橋是清 元内閣総理大臣、政友会総裁