98 なくなった村の獅子舞

 鶴ヶ島には、市指定文化財の高倉獅子舞のほかに、明治から大正にかけて脚折・三ツ木・藤金・上広谷・戸宮・五味ヶ谷・大塚野新田の各神社の獅子舞と、旧大家村(現坂戸市)森戸国渭地祗(くにいちぎ)神社の獅子舞を招いて行う町屋の獅子舞があった。

 大正のはじめ町屋の神明神社は国渭地祗神社に合祀、町屋の人々はその氏子となった。この神社の獅子舞は、「森戸の獅子舞」として坂戸市指定文化財となり今も続けられている。

 戸宮、大塚野新田では戸宮八幡神社の獅子舞が継承され「戸宮の獅子舞」として坂戸市指定文化財に指定されている。昭和15年(1940)に陸軍坂戸飛行場が造成された時点で戸宮は旧勝呂村(現坂戸市)に編入。大塚野新田は脚折北部地区に住民が移ったため戸宮八幡神社の氏子を離れたという経緯がある。

 残る脚折・三ツ木・藤金・上広谷・五味ヶ谷各神社の獅子舞はその土地の事情により途絶えてしまった。

 盛んであった明治時代に獅子の『褒(ほ)め言葉』とそれに対する『返し言葉』が伝わっている。90余歳(昭和57年(1982)当時)の岸田老より聞き取りした獅子の褒め言葉、返し言葉は下記の通りである。


   獅子の褒め言葉

しばらく、しばらく、しばらくの間、御一同様のおん許しを頂きまして、トーザイ、トーザイ、トーザイと、御一同様をおんとめ申上げましては甚だ失礼千萬には候へど、未熟なる私に一言お許し下さいまし。

さてその当村の鎮守御祭札のおん獅子なり。当村と申するは、東は筑波、西は富士、北は日光赤城山をひかへ、南は入間川・多摩川の流れをひかへ、関東は其の名も高き鶴は山でなし、里でなし、山と里の間に鶴ヶ島大字藤金鎮守御祭礼のおん獅子なり。

さて其の鎮守の大門ながむれば、千萬に過ぎし繁林。さて其のやかたを眺むれば、四方やつむね黄金づくしで葺きあげる。さあて其のお庭を眺むれば、まわりは棒金・鉄の釘・黄菊・白菊、咲揃い。さて其の軒場に立たる萬灯は、天下泰平・国家安全・風雨順時・五穀豊饒のちらし書き。そもそも獅子のはじまりは、吾が国にては始まらぬ、支那朝鮮にても始まらぬ、印度の国から来朝し、悪事災難・救済の御神なり。獅子の頭は三つ頭、先なる獅子からほめようか、中なる獅子からほめようか、後なる獅子からほめようか。

まず第一番のみちびきは、山で千年、川で千年、海にて三千年をへし長命のほらの貝なり。先なる獅子と申するは、まなこは燃える火の如く、髭は黄金の針の如く、爪はつるぎをとぎ立てた、其の容態を何と申してよかろうか。まず印度の国、釈迦のご領、獅子の御神とも申そうかい。中なる獅子と申せるは、相州は江の島厳島神社、まず子育ての御神と申そうかい。あとなる獅子と申するは、八十八夜のわかれ霜、二百十日の嵐除け、まず上州は榛名神社のお守りとも申そうかい。

さて又、なかだちの程のよさ、京で生まれて伊勢育ち、肌についたるお召着は、獅子に牡丹の浮絵なり。

さて又、さきに持ちたる軍配は、天下泰平日月のちらし書き。さて又、右手に持った釆配は、まず三ツ頭を引きまわす器なり。

花笠師従をほめ申す、花に舞ひこむ金銀の蝶、花は吉野か嵐山か、まず大和の国の吉野桜のまつさかり。

歌うたい師従もほめ申す、歌うたいの声のよさ、梅に鶯、谷渡りの声とも申そうかい。

笛ふき師従もほめ申す、笛のねずみのとうとさ、義経公の青葉の笛ねずみに、さも似たり。まだまだ、おほめ申したきこと山々よ、山に木の数、草の数、七里ヶ浜では砂の数程候へど、へたな長文句、返って御祭礼の妨げと相なる、先はこの位で打ち切ります。

信徒一同様には、そそう、くだらぬ、申し上げます。

先ずは失礼千萬かくの如く、信徒一同様を、ウヤー マーツテーモース


   返し言葉(褒め言葉への御礼)

東西トーザイ、ただ今御獅子ほめ下されしお客様は、いずこのお方か知りませんが、ごらんの通り、まだけいこ中の事にて不出来不揃いには候へど、万端上々の有難きおんことば山々のよう。山にたとへて申すれば、第一山は富士の山、川にたとへて申すれば、第一川は信濃川。

何かもって、いちいち、御礼すべきでは候へども、ご覧の通り信徒一同取り込みの事にて設備あい届かず候へば、信徒一同に代り不便なる一言を以て、いささか御礼ごへんかまでに、まかりあり、先ず御客様一同様を、ウヤー マーツテー申す