99 忠魂碑と記念碑

 鶴ヶ島第一小学校校庭南隅の区画された場所に、巨大な石碑が建っている。正面が忠魂碑、左裏が戦捷(せんしょう)記念碑、右が兵事表彰記念碑である。忠魂碑・戦捷記念碑は大正の御大典記念事業として鶴ヶ島村が建てたもので、忠魂碑は「日清・日露戦役の戦病死者の英霊を祭り併せて村民精神教育の資に供せんため」、戦捷記念碑は「明治27、28年、明治37、38年役に従軍したる本村勇士の芳名を永久に伝えんため」といわれている。

 2つの石碑は、学校敷地の北端、日光街道沿に建てられたのであるが、太平洋戦争終戦の昭和20年(1945)連合軍令により土中に埋没させられ、7年後の昭和27年(1952)に再建されたものである。

 土中に埋められた年月は、日本国民として長い忍従の日々であったが、連合軍令という一方通行的なものに対してはどうにもならない状況であった。

 戦後外地等から復員して村に帰った旧軍人達は、忠魂碑の措置にやるせない気持だったが、時の至るのを待つより術はなかった。当時復員将校であった者の1人が軍友会を結成、忠魂碑再建を協議して発掘をし、現在地に再建した。

 再建の場所については、脚折善能寺境内が話題となったが、宗派関係が多様で適切でないとの意見がでた。また学校内への再建も問題があり、最終的に現在の様に敷地を区切って建立された。

 忠魂碑ほか2つの石碑再建がなると、次は大東亜戦争に戦病死された英霊の刻名を銅板に刻名し忠魂祠に納めることとなった。当時は金属類の欠乏甚だしく、川越の業者に注文したところ、業者は東京に足を運び入手して注文に応じたと言う。長尺物銅板は英霊名が刻名され、丸めて忠魂祠内に納められているという。

 忠魂安かれと念じ本稿を終る。

    忠魂碑

  高さ 8尺3寸(2m50cm)

  幅  5尺3寸(1m60cm)

  裏面

明治28年より明治39年までの日清日露戦役忠死 戦病死者者之英名 10名の氏名

大正三年十二月二十五日建之 埼玉県入間郡鶴ヶ島村 田中萬次郎敬書

    戦捷記念碑

  高さ 1丈7寸(325cm)

  幅  4尺1寸(124cm)

  裏面

従軍者82名 入寄留者3名 計85名の氏名

建設委員 賛成員氏名

大正四年十一月建

   金子助五郎謹書