明治22年(1889)、帝国憲法が発布されるや町村制が施行された。そしてこれまでの脚折村・高倉村・下新田村・中新田村・上新田村・町屋村・三ツ木村・太田ヶ谷村・藤金村・上広谷村・五味ケ谷村・大塚野新田・戸宮村・三ツ木新田の12ヶ村、2新田が1つとなり新しく鶴ヶ島村が出来たのである。
この時鶴ヶ島村の人口は3,231人、戸数は569戸であった。明治17年(1884)に各村々が1つになって作った上広谷連合戸長役場は廃され、新しく鶴ヶ島村役場が設置された。この時の役場は、現在の大字脚折前方1726番地の町田氏宅前庭にあたる場所にあった。明治22年(1889)の時、村の素封(そほう)家である町田家の門の前に離れ家が建てられてあった。その家は木造平屋建、杉皮葺、3尺(90cm)廊下付2間の座敷で玄関は県道も向ってあり、便所、勝手付のもので村の中枢機関である新生鶴ヶ島村役場として規模、設備共にふさわしい建物であった。村は町田家の好意によりここを役場に仮用し、畳敷の座敷で村長・助役・収入役・戸籍係・兵事係・雑務係6名で執務された。他に小使(用務員)が1名おり定使(じょうづかい)を兼ねていた。庭には老樹の植込みがあり、池には観賞用魚が飼われていたと言う。鶴ヶ島村で最初に建てた小学校舎、明治30年(1897)11月落成の第一小学校、明治33年(1900)10月落成の第二小学校等は、ここの座敷で計画が練られてことであろう。
その後大正3年(1914)、村は御大典記念事業として鶴ヶ島村役場新築を計画し、敷地1反歩(10a)を金100円で買収、建築費金1,100円の巨費を投じて現在の第一小学校敷地の西北、市道沿いに新役場を建てたのである。時に大正4年(1915)、貸屋の役場から村で作った村役場に移ったのであった。
新役場は木造2階建瓦葺で、間口5間半(9.9m)、奥行4間(7.2m)、23坪(76m2)あり、窓はガラス、中央正面が出入口(玄関)上には雨除けが作ってあり、腰高ガラス戸2枚が開閉できるようになっていた。祝祭日には雨除けに日の丸を交叉して立てた。付帯設備である便所、小使室(用務員室)は下屋であった。
この時役場に接続して、間口2間半(4.5m)、奥行2間(3.6m)、5坪(16.5m2)、2階建の倉庫1棟が作られ、保存書類や重要物件を保管するように配置されていた。
役場は、階下が事務室で、2階は村会・区長・消防・衛生等の会議に使われた。板の間には木製の脚長机が備えられ、隅を区切って役場吏員宿直室が設備されていた。宿直室は後に階下が増築されるや階下に移った。
役場は村長・助役・収入役・吏員(職員)、小使とも10名で、事務室の構造は出入口コンクリート、土間より2尺(60cm)くらい高く作られてあり、村民との用談は高い所から窓ガラス越しであった。事務室の窓ガラスは、下の部分が高さ1尺(30cm)幅1尺3寸(39cm)位の開閉できるガラス戸で、小窓を開けて用談するようになっていた。寒冷期は、早朝小使室で沢山の炭火をおこし、吏員は個人用小型火鉢(私物)に火を入れて足元に置き暖をとったのである。
2階は後年畳を入れて座敷に模様替をなし、村会・一般会議は座布団を敷いて座ってする様にした。事務室も建増を数回した結果、奥が深く彩光が悪くなり、常に点灯していなければならない状態にあった。
この役場も戦時中2階全部が陸軍航空施設部隊本部となり、少佐以下将校・兵が出入りしていた時もあった。だが終戦となるや元の役場2階に戻ったのである。
戦後村の規模が急に増大して、老朽役場も建増の限界点に達した。そこで村議会は役場庁舎新築を決意し、昭和39年(1964)、鉄筋コンクリート庁舎を完成させた比企郡玉川村・児玉郡児玉待役場を視察して回った。そして個室の配置・照明・議事堂・委員会室・駐車場・冷暖房・浄化槽等各般にわたり検討し、昭和40年(1965)9月新しい鶴ヶ島町役場庁舎が作られてたのである。
90余年にわたる役場の移り変わりは鶴ヶ島町発展の歴史であろう。
なお、脚折町田宅のところの役場仮用の建物は、昭和22年(1947)頃解体され、明治時代最初の鶴ヶ島村役場として貢献した記録を残している。
追記
平成3年(1991)9月、市制施行とともに現在の市役所庁舎に移転した。