福原越後元僴(ふくばらえちごもとたけ)

 福原越後公は、幕末の長州藩で重職を務め、禁門の変の責任を取り自刃した人物です。越後公は文化12年(1815年)長州藩の支藩である徳山藩主毛利広鎮の六男として生まれ、幼少期に佐世親長の養子になりました。その後、安政5年(1858年)に宇部の領主であり、藩の永代家老であった福原家をつぐことになりました。若いころから江戸留守居役や、軍事関係の奉行など藩の要職を歴任し、長州藩の重役として活躍しました。文久3年(1863年)に長州藩が京都から追放されると、藩主の潔白を訴えるために兵を率いて上京。国司信濃公や益田親施公とともに京都で幕府軍と戦います(禁門の変)。帰郷後、「3人の家老の首を差し出せば藩を許す」という幕府側の条件をのみ、岩国の龍護寺で切腹しました。享年50歳。墓所は宇部の宗隣寺にあります。
 福原越後公は激動の時代に藩の要職にあり、知行地である宇部に帰ることはごくわずかでした。しかし宇部の人々は藩を守るために時代の犠牲になった越後公の遺徳を忘れず、次の時代を担う優秀な人材を育成するとともに、共存同栄の志のもとで、近代の宇部を創造していくことになります。
 福原家の菩提寺に伝わる福原越後公の木像は、精悍な顔つきが特徴的です。一方で、現在残されている越後公の書や手紙などの筆跡は、とても穏やかで繊細な筆使いを示し、教養のある文化人としての一面を感じ取ることができます。

福原越後公木像
宇部市宗隣寺所蔵
 

福原越後公銅像
宇部護国神社内
 

東光寺 福原越後墓碑
萩市東光寺内 四大夫十一烈士墓碑のひとつ
 

福原元僩之碑
宇部市 琴崎八幡宮内