国司信濃親相(くにししなのちかすけ)

 国司信濃公は、その能力により長州藩の家老に昇進し、新しい国づくりのために人生をかけた若者です。信濃公は天保13年(1842年)高洲平七元忠の次男として、長門国萩に生まれました。そして6歳の時、万倉の領主だった国司家の養子になり、将来を期待されて育ちました。尊王攘夷という藩の理想を実現するため、関門海峡に来た外国船を砲撃。その功績により、21歳にして赤間関奉行になります。禁門の変では、福原越後公や益田親施公とともに兵を指揮しました。帰郷後、幕府派から監禁され、辞世の和歌を2首残し、徳山の澄泉寺で切腹させられます。愛刀「信国」(しんこく)をにぎり、自力で腹とのどをかき切るという勇敢な最期で、享年23歳の若さでした。墓所は地元万倉の天龍寺にあります。
 現在、国司家に国司信濃公の肖像が伝わっていますが、美男子の一面と武人としての一面を合わせ持った青年像が見られます。

国司信濃公肖像画
個人所蔵
 

国司家墓所及び墓碑
宇部市大字奥万倉 宇部市指定史跡
 

万倉広矛神社
元は若一王子社と呼ばれていて、国司信濃公は京へ出兵するときここで勝利祈願をしました。
 

万倉美登里神社
宇部市大字奥万倉 御神体は信濃公愛用の手鏡