池田屋事件と京都への出兵

 元治元年(1864年)3月の時点で、長州藩内では八月十八日の政変の結果を受けて、京都における政治勢力の回復を目指す方法として、武力による制圧を目指す派閥とそれを押し留めようとする派閥が対立していました。このような中で6月5日に京都の池田屋で尊王攘夷派の志士が多数新撰組に惨殺されるいわゆる「池田屋事件」が発生し、長州藩から多くの犠牲者が出ました。この情報がもたらされると武力による問題解決が決定的になり、6月15日に福原越後公が兵を率いて上京することが決定されました。
 福原越後公の進発にあたり出された覚書には、表向きは江戸に向けて出発するとしつつ、京都に用事もあり、伏見にしばらく滞在し、状況によっては戦闘もありうるという記載がありました。この時点では確たる作戦目標が決定されていなかったようです。
 福原越後公と久坂玄瑞は6月16日に山口を出発、同月22日大阪到着、同月24日に越後公は伏見に着陣。久坂玄瑞は真木和泉と共に山崎に着陣しました。国司信濃公は6月25日に山口を出発、7月9日山崎に至り、同月11日には京都嵯峨の天龍寺に入りました。益田親施公は7月6日に三田尻を出発、同月14日に山崎の対岸の石清水八幡宮付近に着陣しました。
 京都を取り巻く形で着陣した長州軍は、長州藩に友好的な立場を取る諸藩を頼って藩主や尊王攘夷派の公卿の入京許可と攘夷実行の嘆願運動を続けました。しかし状況は好転しませんでした。7月17日に石清水八幡宮において長州藩の参謀が集まり、今後の方針が話し合われましたが、ここにいたっては軍事行動を起すしかないとの意見が大勢を占めることとなり、翌日18日から出兵の準備がはじめられ、運命の7月19日を迎えることになります。

益田右衛門介肖像画
萩市 須佐歴史民俗資料館所蔵
 

天王山 十七烈士の墓
天王山で自刃した長州軍真木和泉らの墓
 

天龍寺敷地内に残る長州藩兵の残した刀傷
禁門の変で天龍寺に布陣した長州軍の試し切りの刀跡、天龍寺塔頭弘源寺に残る
 

石川家文書 伏水行日記
石川家文書(宇部市所蔵) 京へ動員された兵士の動向が記されています