禁門の変の戦闘

 7月18日の夜半から長州軍は行動を開始し、伏見の長州藩邸にいた福原越後軍は700余りの兵で午後10時に御所を目指して出発、翌19日の午前4時頃に藤森付近で大垣藩兵と戦闘になりましたが、幕府軍に撃退され、福原越後公も顔に弾丸を受け未明に伏見に引き上げました。その後再度竹田街道から京都に入ろうと試みたものの、彦根と会津の藩兵に食い止められて、やむなく伏見の藩邸に火をかけて山崎方面に退陣していきました。この軍勢に従軍していた石川範之は自身の記録に、戦闘が始まると砲声が山野に響き、銃声が市中に轟き、天地も崩れるかと思うほどであったと、その激しい戦いのありさまを記録しています。
 嵯峨の天竜寺の国司信濃軍の兵800は、18日の夜半に出発し、途中で国司信濃公と来島又兵衛の隊に分かれてそれぞれ蛤御門を目指して進みました。翌日、御所周辺で会津藩・薩摩藩・桑名藩の兵と激闘を演じましたが最後には敗退し、国司信濃公は退却し、来島又兵衛は蛤御門周辺で弾丸を受けて戦死しました。
 山崎から18日午後8時に進発した久坂玄瑞、真木和泉の兵500は南から堺町御門に迫りましたが、ここでも会津藩・桑名藩・越前藩が立ちふさがり、久坂は負傷し、鷹司邸から宮中に参内しようとしたが失敗。鷹司邸に火を放ち自刃しました。真木和泉は天王山まで撤退した後に長州に落ち延びることを断り同所で自刃しています。なお、益田右衛門介は山崎から動かず、戦闘には参加していません。毛利元徳公は瀬戸内海を京都に向っていましたが、讃岐の多度津で敗報を聞き、長州に引き返しました。

久坂玄瑞戦死の地(鷹司邸跡)
久坂玄瑞自刃の地
 

来島又兵衛 戦死の地
京都御苑 蛤御門に程近い大きな椋木の下で戦死したと伝わります。
 

蛤御門に残る弾丸の跡
禁門の変の戦闘の激しさを記録しています。
 

来島又兵衛銅像
山口県美祢市 西厚保小学校敷地内