禁門の変の終焉

 禁門の変と言われた長州藩と薩摩藩・会津藩などの幕府軍との戦いは、長州軍の敗退、京都・大阪方面からの撤退によって終了しました。 禁門の変の時に鷹司邸などから出火した火は京都の二万八千戸を焼失させました。人々はこれを「ドンドン焼け」と呼び、京都の街は大きな被害を被りました。
 7月22日、将軍徳川慶喜は毛利敬親が国司信濃公に交付した軍令状を天龍寺において発見し、朝廷に提出しました。これにより朝廷は長州藩の追討を幕府に命じることになり、長州藩は窮地に立たされることになりました。
 京都東山にある霊山護国神社には、禁門の変で戦死した長州藩士の墓があります。ここは坂本龍馬や中岡新太郎を代表とする各藩の幕末の志士から、近代以降の戦争で戦死した兵士の墓まで、戦いの中で命を落とした数多くの人々が眠ってる場所です。
 その墓地の一角に、旧長州藩士の招魂社と、長州藩関係の志士の墓碑が立っている場所があります。そこには、禁門の変で命を落とした久坂玄瑞や来島又兵衛らの志士や、従軍した兵士の墓碑が立っていて、その数は392名にもなります。

霊山護国神社 長州藩士の墓
京都府東山区 霊山墓地
 

大島吉之助(西郷吉之助)書状
鹿児島県歴史・美術センター黎明館所蔵 玉里島津家資料 西郷から大久保一蔵あて
禁門の変の戦闘の様子や敵手である長州藩の行動などが記されています。
 

宇部護国神社 宇部の兵卒の墓碑
宇部護国神社敷地内 戦死者の中には戦死場所すら不明のものもいた
 

万倉護国神社 万倉の兵卒の墓碑
万倉護国神社内