長州征討への動きと三家老の幽閉

 禁門の変の後、長州に帰ってきた三人の家老は、それぞれ領地に戻り謹慎してその処分を待つことになりました。元治元年(1864年)8月になってから藩は三家老の職を免じ、それぞれの処分が決まるまで徳山藩において幽閉することとし、福原越後公は衣笠伊織宅、益田親施公は総持院、国司信濃公は澄泉寺に移されて沙汰を待つことになりました。一方、禁門の変後の長州藩は、尊皇攘夷を唱える勢力が衰退し、幕府への謝罪恭順を支持する保守派が藩の中枢を握ることとなり、また、時を同じくして起こった四国連合艦隊の下関砲撃により、長州藩は大きな打撃を受けて、現状では幕府へ従うほか方法がないとの意見が急速に広まりました。
 禁門の変において、国司信濃公に交付された軍令状を押収した幕府方はそれを朝廷に提出。7月23日、朝廷は長州藩の責任を追及するため、幕府に追討の命を出し、幕府は西国の諸藩に長州出兵の準備を行うよう指示しました。この出兵の参謀となった薩摩藩の西郷吉之助は、開戦により双方の被害が甚大になることを憂い、長州藩の保守派を利用し、藩の方針を幕府恭順へと導き、戦わずして勝つ作戦を取ろうとしました。
 11月4日に岩国藩を訪れた西郷は、幕府へ恭順するように迫り、出兵中止の条件として禁門の変の責任者である三家老の首を差し出すよう岩国藩主に伝え、岩国藩は萩にいる藩主に伝えました。ここにおいて、長州藩は幕府への謝意を示すため三人の家老に自刃を命じることになりました。

益田親施幽閉の地 徳山
周南市徳山 益田親施公が幽閉され自刃した惣持院跡
 

国司信濃幽閉の地 徳山
周南市徳山 国司信濃公が幽閉され自刃した澄泉寺跡
 

福原越後幽閉の地 岩国清泰院
岩国市川西 福原越後最後の地
 

徳山 三大夫の碑
周南市徳山 徳山動物園敷地内 昭和15年に三家老を顕彰して作られた。