三家老の自刃

 徳山に幽閉されていた三人の家老に切腹の命が下って、福原越後公については、当時の徳山藩主毛利元蕃(もとみつ)が実の弟であり、治安維持の観点も考慮され岩国藩へ移送され、そこで切腹することとしました。
 元治元年11月11日午後11時、幽閉されていた徳山惣持院において、親族の益田与一郎の介錯により益田右衛門介親施公は自刃しました。享年32歳でした。
  辞世 今更に なにあやしまむ 空蝉の
     よきもあしきも 名のかはる世は

 同日午後12時、幽閉されていた徳山澄泉寺において、親族の国司助次郎の介錯により、国司信濃公は自刃しました。享年23歳、切腹にあたり領地万倉の若一王子社に預けていた藩主より拝領の短刀「信国」(しんこく)を取り寄せての最後でした。
  辞世 よしやよし 世を去るとても
     我が心 御国のために なほ尽さばや

 同日夜の内に徳山から岩国の川西にある龍護寺に移送された福原越後公は12日の早朝に同所で自刃して、藩に命を捧げました。介錯は三戸真吾が務めました。越後公は藩が示した罪状書があまりにも納得がいかなかったようで、何度か見直しを求めたとのことです。
  辞世 苦しさは たゆる我身の 夕煙
     空に立つ名は 捨てがてにする

 三人の首級は岩国において1つとなり、11月14日に広島城下の幕府軍の元へ届けられ、同日に広島国泰寺において首実検が行なわれ、その結果長州への出兵は無期限中止ということになりました。三人の家老以外にも、萩の野山獄に投ぜられていた四人の参謀も斬首され、多くの血が流される結果となりました。

益田親施公墓
萩市須佐町 萩市指定史跡
 

国司信濃辞世の句短冊
個人蔵
 

福原越後殉難の碑
岩国市 清泰院敷地内
 

福原越後遺書
福原家文書(福原家所蔵)