高杉晋作の挙兵と太田・絵堂の戦い

 禁門の変の責任を負って三人の家老を自刃に追い込み、藩政の権力を握った勢力は、それに続いて藩の重臣を萩の野山獄(後に処刑)に投獄してその地盤をより強固のものにしました。
 九州に潜伏していた高杉晋作は、この状況を打開すべく挙兵することを決意し、元治元年(1864年)12月15日に長府の功山寺に逗留していた三条実美ほか五人の公卿に対して挙兵することを報告した後、翌16日下関の新地会所を襲い武器・弾薬を手に入れました。高杉晋作に従ったのは伊藤俊輔(後の伊藤博文)ら諸隊の内遊撃隊・力士隊の80名程度でした。高杉が創設した奇兵隊をはじめとした多くの諸隊は、時期尚早と考える者や、仮にも藩主に弓を引くことになることを恐れる者が多くを占め、当初は高杉の挙兵に同調しませんでした。
 その後、三田尻の海軍局を襲い、軍艦を手に入れたるなどして力をつけてきた高杉らに対して、諸隊は次第に同調し、萩を目指して進軍すべく伊佐(美祢市伊佐)に集結しました。これを鎮圧しようとした萩の政府軍と大田・絵堂の地(現在の美祢市美東町)で対峙することになり、慶応元年(1865年)1月に戦闘が開始されました。戦いは諸隊の側の絵堂への奇襲攻撃により開始され、萩の政府軍も反撃し、大木津、川上口、吞水峠などで激闘が繰り広げられました。10日間にわたる戦闘の末、勢いに勝る諸隊側が政府軍を萩に押し返し、勝利をつかみました。この後、藩主毛利敬親は藩論を討幕へと変更し、藩の中枢部の人事を一新しました。この後長州藩は幕府との戦いを経て、明治維新へと進んでいくことになります。
 美祢市の旧美東町の一帯には、諸隊の本部が置かれた「金麗社」や兵士の墓などの史跡や、激戦の地の石碑などがあり、往時を偲ぶことができます。

功山寺 高杉晋作像
下関市 功山寺敷地内
 

下関 新地会所跡
下関市上新地町
 

美祢市美東町 金麗社
美祢市美東町太田 ここに諸隊の本陣が置かれました。
 

太田・絵堂の戦いの碑(呑水峠)
美祢市美東町吞水峠