四境戦争(第二次長州征討)

 第一次長州征討から2年後の慶応2年(1866年)、長州藩は薩摩藩と同盟を結び、密かに武器の調達を行って軍備の近代化を図りました。こうした長州藩の動きを察知した幕府は、再び諸藩に長州への出動を命じ、尾張藩主 徳川茂徳を先手総督として、彦根藩主 井伊直憲、高田藩主 榊原政敬を先鋒に、広島藩ほか11藩に従軍の命令を出しました。ただし長州藩と同盟関係にあった、薩摩藩が幕府の出兵要請を拒否するなど諸藩は足並みが揃っていない状況でした。一方、長州藩は、第一次長州征討以来、戦いに備えて軍備を整えており、幕府軍を迎え討つ構えでした。幕府軍は、「芸州口」、「周防大島口」、「石州口」、「小倉口」の4方面から長州藩を攻め込む準備を進め、長州軍は各方面に高杉晋作や大村益次郎らを派遣し、その指揮のもとで迎え撃つことになりました。
 慶応2年(1866年)6月、戦いは大島口の幕府軍からの艦砲射撃により始まり、各地で激戦が繰り広げられました。兵士の数では幕府軍が圧倒していたものの、寄せ集めの幕府軍は士気が上がりませんでした。武器と戦術の近代化に成功した長州藩は各地で幕府軍を圧倒し、石州口の浜田城、小倉口の小倉城が落城するなど戦局を有利に進めていきました。7月20日に将軍徳川家茂が病没したことも重なり、幕府軍は勝海舟を広島に派遣して休戦の協定を結び、ここに四境戦争は一応の休戦の状態となりました。
 四境戦争の舞台となった周防大島・和木町・島根県益田市・福岡県北九州市などには、戦場跡の史跡や戦いの様子を記録する石碑、亡くなった兵士の墓碑などが残っており、歴史の大きな転換点となったこの戦争を後世に伝えています。

石州口 扇原関門に残る岸静江国治の墓
島根県益田市 岸静江の戦死の地
 

大島口 現在も残る幕府軍砲撃の着弾跡 周防大島 油宇 浄西寺
周防大島町油宇浄西寺 幕府軍の砲撃の跡
 

小倉口 下関厳島神社の太鼓
下関市 厳島神社敷地内 戦利品として小倉城から持ち帰った太鼓
 

芸州口 四境之役対境の地碑
和木町 小瀬川沿い