慶応2年(1866年)6月、戦いは大島口の幕府軍からの艦砲射撃により始まり、各地で激戦が繰り広げられました。兵士の数では幕府軍が圧倒していたものの、寄せ集めの幕府軍は士気が上がりませんでした。武器と戦術の近代化に成功した長州藩は各地で幕府軍を圧倒し、石州口の浜田城、小倉口の小倉城が落城するなど戦局を有利に進めていきました。7月20日に将軍徳川家茂が病没したことも重なり、幕府軍は勝海舟を広島に派遣して休戦の協定を結び、ここに四境戦争は一応の休戦の状態となりました。
四境戦争の舞台となった周防大島・和木町・島根県益田市・福岡県北九州市などには、戦場跡の史跡や戦いの様子を記録する石碑、亡くなった兵士の墓碑などが残っており、歴史の大きな転換点となったこの戦争を後世に伝えています。
石州口 扇原関門に残る岸静江国治の墓
島根県益田市 岸静江の戦死の地
大島口 現在も残る幕府軍砲撃の着弾跡 周防大島 油宇 浄西寺
周防大島町油宇浄西寺 幕府軍の砲撃の跡
小倉口 下関厳島神社の太鼓
下関市 厳島神社敷地内 戦利品として小倉城から持ち帰った太鼓
芸州口 四境之役対境の地碑
和木町 小瀬川沿い