四境戦争のその後

 慶応2年(1866年)四境戦争(第二次長州征討)の最中に第14代将軍徳川家茂が没し、その後を継いだ徳川慶喜は征討軍を引き上げて両軍は休戦状態となり、四境戦争は事実上終了することと成りました。
 その後、徳川慶喜は土佐藩から提唱された幕府と有力諸藩との連合政権を構築する案を受け入れて、「大政奉還」をするものの、討幕を目指す薩摩藩や岩倉具視らによるいわゆる「王政復古の大号令」による幕府勢力の駆逐の動きに窮地に立たされました。旧幕府軍は大阪城に拠点を移し、京都に進軍して京都を守護する新政府軍と戦闘となりました「鳥羽伏見の戦い」。しかし薩摩藩兵を中心とした新政府軍に敗退し、徳川慶喜は江戸に退き、謹慎することになりました。この戦いで勝利した新政府軍は戊申戦争と呼ばれる全国各地の戦いを経て幕府勢力を一掃し、明治維新政府を樹立しました。
 京都の南部地域伏見から鳥羽方面にかけて、幕府軍と新政府軍が戦った旧跡や大砲の被弾の後、戦いの中で戦死したの兵士の墓碑などが残されています。また戊辰戦争の舞台になった東北地方や、戦いに新政府軍の兵士として動員され、遠く離れた戦地で戦死した各藩の兵士の故郷にはその戦いの歴史を後世に伝える墓碑や石碑が残されています。

鳥羽伏見の戦い 小枝橋
京都市伏見区 鳥羽方面の戦場
 
鳥羽伏見の戦い 伏見に残る弾痕
京都市伏見区 街道沿いの戦いの跡
 

鳥羽・伏見の戦い石碑
京都市伏見区御香宮門前町(御香宮内)