福原芳山(ふくばらよしやま)

 福原芳山公は、弘化4年(1847年)6月に長州藩寄組(家老の家格の次席)の粟屋親睦の子として生を受け、福原家が禁門の変により断絶の危機に瀕した時に藩主の命により養嫡子により福原家を継ぎました。慶応元年(1865年)に長州藩の干城隊(中級藩士による部隊)の総督となり、慶応2年(1866年)のいわゆる「四境戦争」の時は部隊を率いて小瀬川付近の芸州口から小倉口へと転戦しました。
 慶応3年(1867年)に長崎を経由してイギリスに留学をした芳山公はロンドンのリンカーンズ・イン法学院においてバリスターの資格を取得するなどした後、明治7年(1874年)に帰国しました。
 帰国後、他村の人々に宇部の石炭の採掘権が買い占められている現状を見た芳山公は、宇部の人々のため石炭鉱区を買い戻すことに着手し、炭坑会社を設立することにより宇部の人民が炭鉱事業を行うことができる体制づくりを行いました。
 法律家としての芳山公は大阪裁判所や日本の最上級裁判所だった大審院の判事局で法律の専門家として活躍しましたが、明治15年(1882年)に35歳の若さで亡くなりました。
 福原芳山公のふるさとを思う気持ちは、宇部の人々の自立を援助するとともに、石炭産業の発展の基礎を形作りました。

福原芳山肖像画
宇部市 宗隣寺所蔵
 

福原芳山公墓所
宇部市 宗隣寺敷地内
 

福原芳山留学時のノート
福原家文書(渡邊翁記念文化協会所蔵) イギリスで使用していた自筆ノート
 

宇部炭田乃碑 宗隣寺
宇部宗隣寺敷地内 石碑に福原芳山公の肖像画を印刷