福原芳山公と四境戦争

 福原芳山公は、藩士の部隊である干城隊(かんじょうたい)の総督に任命されるとともに、藩士の武士と農民の混成部隊である「知方隊」(ちほうたい)を慶応元年(1865年)に結成し、幕府との戦いに備えることになります。芳山公は戦場に向かうに当たり、「先考報恩覚悟の状」(せんこうほうおんかくごのじょう)という決意文をしたためます。これは、御国家存亡の危機である今、決死の思いで敵兵と戦い、藩主と先君福原越後公の冤罪を晴らすことを誓ったものです。芳山公は慶応2年(1866年)の7月から8月にかけて、芸州口で、その後9月から10月にかけては小倉口に転戦して戦いました。
 その後戦闘が一段落し、11月24日に戦場から離れた芳山公は、以前から念願であった洋学修行の実現を図り、12月には兵学修行と称して長崎遊学の手形を受け、12月20日に長崎に赴きました。次いで翌年には長崎遊学を英国留学に切り替えてロンドンに旅立っていくことになります。

先考報恩覚悟の状
福原家文書(渡邊翁記念文化協会所蔵)
 

福原親治芳山と改名一件
福原家文書(渡邊翁記念文化協会所蔵)
 

鈴尾五郎兵学修業長崎留学手形
福原家文書(渡邊翁記念文化協会所蔵)
 

福原芳山使用トランク
宗隣寺所蔵 福原芳山公が実際に使用した木製トランク