福原芳山公と石炭産業

 福原芳山公は明治7年(1874年)8月にロンドンから帰国しました。当時の宇部地区は、旧藩の石炭局の主任であった福井忠次郎によって石炭を掘れる借区権を独占的に占有されている状態で、地元の人以外の人間によって地下の宝庫を独占されている状態でした。
 芳山公は英国滞在中の知識を使い、宇部地区の借区の買戻しに成功しました。これらの借区について、芳山公は元家臣の俵田瀬兵衛に委任して士族・庶民の別なく、地元民によって経営される本格的な採炭会社を作ろうと考えていました。
 俵田瀬兵衛は芳山公を社長に据えて会社経営を行うことを考えていましたが、芳山公は会社を福原家のものと考えてはおらず、宇部の地元民全体で管理運営していく体制にしていくよう俵田に意見しています。この後、福原芳山公は明治15年(1882年)に35歳の若さで亡くなったため、芳山公自身が宇部地域の産業の牽引者になることはありませんでしたが、そのふるさと宇部の発展を志す強い思いは若い世代に引き継がれていくことになります。

福井忠次郎顕彰碑
山陽小野田市千代町 福井忠次郎は山陽小野田市の産業の基盤を作った人物
 

炭鉱借区抗業委任請書草案
俵田家文書(宇部市所蔵) 福原芳山あての炭鉱業の世話役の委任請書
 

石炭会社役配案
俵田家文書(宇部市所蔵) 福原芳山公は社長に想定されていた。
 

防長南部懇親会
素行渡邊祐策翁(昭和11年刊)より、明治18年に開催された宇部地域の青壮年の集い