福原芳山公後の宇部

 芳山公は宇部の石炭産業が軌道に乗る前の、明治15年(1882年)8月に35歳の若さで亡くなりますが、芳山公の精神は地元宇部の人々によって引き継がれていきます。宇部の石炭産業はその後のデフレの影響による不況などによりすぐに大きな成果を挙げることはありませんでしたが、明治19年(1886年)に宇部共同義会が設立され、宇部地域の産業発展の基礎ができました。この会は地域の様々な問題を自主的に解決し、宇部村民の繁栄を図ることを目的とした公益団体です。第一部を社会公共事業、第二部を石炭事業と定め、1260戸の村民は各自の石炭鉱区権を共同義会に委託し、宇部の元領主福原家からも多くの鉱区が無償譲渡されました。これにより宇部地区の石炭は共同義会により効率的に管理されることとなり、村民に多大な利益をもたらすことになりました。
 宇部共同義会は福原芳山公が目指した、地元の資源を地元の人が開発し、その利益を地元に還元するという「宇部の精神」の出発点になった組織でした。宇部はこの後、沖の山炭鉱や東見初炭鉱らの大規模な石炭会社の出現や、渡邊祐策らのリーダーの存在により、近代産業を代表する都市へと発展していくことになります。
 石炭産業により、人口の増加と市街地の拡大が進んだ宇部村は、大正10年(1921年)に市制を施行して、村から一躍市となりました。その後、昭和前期の周辺との市町村合併と、平成期の市町村合併により、現在の宇部市域が形成されています。
 宇部市は令和3年(2021年)11月1日に、市制100周年を迎えます。

宇部共同義会創立出願書
西村研吾家文書(宇部市所蔵)
 

沖ノ山電車竪坑
沖ノ山炭鉱竪坑史跡 国登録有形文化財
 

宇部市制記念式典
大正12年5月 宇部市市制写真帳から
 

渡辺祐策銅像
宇部市渡辺翁記念会館敷地内 昭和11年建立