一五 什書(十五)

福原広俊跡職之事

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同名隠岐方(広俊)病死ニ付、跡職之事、知行高八千三百五石之地、全無相違御手前江相続可被仰之旨、御意ニ候、委細吉原武兵衛相含口上候、恐ゝ謹言
                  国司与三兵衛
   元禄八亥
     五月十八日         広重(印)
                   毛利市正
                   就直(印)
        福原権平(広頼)殿
 
付立(生雲村 鵜の島塩浜)

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付立
一 高拾石
但、阿武(長門)郡生雲村ニ而開作石之分
一 同六拾五石壱升
但、厚狭郡宇部村鵜之嶋ニ而塩浜田成出石之分
以上高七拾五石壱升
右御手前知行所之内、田畠端ゝニ而先年拝領之開作幷塩浜田成御断被遂御分別、近年仕立相成分、検地石盛被仰付候処ニ、高七拾五石壱升有之通、坪付帳調出候、因茲当務ゟ本知八千三百五石ニ引加、以上高八千三百八拾石壱升ニ被成遣候条、此辻を以諸役可有御勤候、恐ゝ謹言
    元禄八亥            
      十二月廿日       佐(佐世広長)主殿(印)
(毛利就詮)
                       毛阿波(印)
                  穴(宍戸就長)備前(印)
        福権平(福原広頼)殿