弥生時代中期後半になると、竪穴住居が複数造られるムラが見られるようになります。
保品(ほしな)の栗谷(くりや)遺跡では、竪穴住居5軒と、ムラの首長を埋葬した方形周溝墓11基が発見されています。
栗谷遺跡の弥生時代中期の竪穴住居
栗谷遺跡の方形周溝墓群
佐山の田原窪(たわらくぼ)遺跡では、ムラのまわりに堀を巡らせた環濠(かんごう)集落が発見されています。堀は断面V字形で、上面幅2~3m、深さ1~2mで、この堀に囲まれて竪穴住居が46軒見つかっています。上高野(かみこうや)の上高野白幡(かみこうやしらはた)遺跡や米本(よなもと)の逆水(さかさみず)遺跡などもこの頃のムラです。
遺物としては南関東地方に広く見られる土器の壺や甕、大陸系の太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)や柱状片刃(ちゅうじょうかたば)石斧、扁平片刃(へんぺいかたば)石斧が出土しています。
田原窪遺跡の環濠集落
栗谷遺跡の磨製石斧
後期になると、市内各所にムラの跡が成立します。栗谷遺跡では、中期に引き続きムラが展開し、竪穴住居が92軒となり、印旛沼南岸では最大級と言われています。
同じ頃の遺跡として、ほかに保品の上谷(かみや)遺跡、神野(かの)の境堀(さかいほり)遺跡、平戸(ひらと)の道地(どうち)遺跡、萱田(かやだ)遺跡群の権現後(ごんげんうしろ)遺跡、北海道(ほっかいどう)遺跡、ヲサル山遺跡、白幡前(しらはたまえ)遺跡、井戸向(いどむかい)遺跡、萱田町の川崎山(かわさきやま)遺跡、上の山(うえ)の(やま)遺跡、村上の村上込(こめ)の内(うち)遺跡、浅間内(あさまうち)遺跡、上高野の平沢(ひらさわ)遺跡、米本の阿蘇(あそ)中学校東側(ひがしがわ)遺跡などがあります。
この時期の土器は、前代に比べて小地域ごとに個性のある土器が作られるようになります。
栗谷遺跡の弥生土器
八千代市域を含む印旛地域では、文様に附加条(ふかじょう)縄文と呼ばれる独特の縄文や結び目を回転させた結節文(けっせつもん)が多用され、器種は甕が主体です。土製品の紡錘車(ぼうすいしゃ)がしばしば出土し、糸繰(いとくり)が盛んだったのでしょう。石器は作られなくなり、少数ですが鉄製品が見られるようになります。
権現後遺跡の弥生土器
栗谷遺跡には、弥生時代終末期と考えられる大型方形周溝墓が出現します。畿内や東海地方の影響を受けた壺や南武蔵地方の甕、内房地域の土器が出土し、地元の土器は出ないため、外来系の有力者の墓と推定されます。次の古墳時代につながる現象です。
また、萱田のヲサル山遺跡では、鉄製腕輪(鉄釧(くしろ))・大型の硬玉(こうぎょく)製勾玉(まがたま)・ガラス玉などが副葬された方形周溝墓が見つかっています。弥生時代終末から古墳時代初頭にかけての時期の有力者の墓と考えられます。
ヲサル山遺跡の鉄釧と勾玉
保品(ほしな)の栗谷(くりや)遺跡では、竪穴住居5軒と、ムラの首長を埋葬した方形周溝墓11基が発見されています。
栗谷遺跡の弥生時代中期の竪穴住居
栗谷遺跡の方形周溝墓群
佐山の田原窪(たわらくぼ)遺跡では、ムラのまわりに堀を巡らせた環濠(かんごう)集落が発見されています。堀は断面V字形で、上面幅2~3m、深さ1~2mで、この堀に囲まれて竪穴住居が46軒見つかっています。上高野(かみこうや)の上高野白幡(かみこうやしらはた)遺跡や米本(よなもと)の逆水(さかさみず)遺跡などもこの頃のムラです。
遺物としては南関東地方に広く見られる土器の壺や甕、大陸系の太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)や柱状片刃(ちゅうじょうかたば)石斧、扁平片刃(へんぺいかたば)石斧が出土しています。
田原窪遺跡の環濠集落
栗谷遺跡の磨製石斧
後期になると、市内各所にムラの跡が成立します。栗谷遺跡では、中期に引き続きムラが展開し、竪穴住居が92軒となり、印旛沼南岸では最大級と言われています。
同じ頃の遺跡として、ほかに保品の上谷(かみや)遺跡、神野(かの)の境堀(さかいほり)遺跡、平戸(ひらと)の道地(どうち)遺跡、萱田(かやだ)遺跡群の権現後(ごんげんうしろ)遺跡、北海道(ほっかいどう)遺跡、ヲサル山遺跡、白幡前(しらはたまえ)遺跡、井戸向(いどむかい)遺跡、萱田町の川崎山(かわさきやま)遺跡、上の山(うえ)の(やま)遺跡、村上の村上込(こめ)の内(うち)遺跡、浅間内(あさまうち)遺跡、上高野の平沢(ひらさわ)遺跡、米本の阿蘇(あそ)中学校東側(ひがしがわ)遺跡などがあります。
この時期の土器は、前代に比べて小地域ごとに個性のある土器が作られるようになります。
栗谷遺跡の弥生土器
八千代市域を含む印旛地域では、文様に附加条(ふかじょう)縄文と呼ばれる独特の縄文や結び目を回転させた結節文(けっせつもん)が多用され、器種は甕が主体です。土製品の紡錘車(ぼうすいしゃ)がしばしば出土し、糸繰(いとくり)が盛んだったのでしょう。石器は作られなくなり、少数ですが鉄製品が見られるようになります。
権現後遺跡の弥生土器
栗谷遺跡には、弥生時代終末期と考えられる大型方形周溝墓が出現します。畿内や東海地方の影響を受けた壺や南武蔵地方の甕、内房地域の土器が出土し、地元の土器は出ないため、外来系の有力者の墓と推定されます。次の古墳時代につながる現象です。
また、萱田のヲサル山遺跡では、鉄製腕輪(鉄釧(くしろ))・大型の硬玉(こうぎょく)製勾玉(まがたま)・ガラス玉などが副葬された方形周溝墓が見つかっています。弥生時代終末から古墳時代初頭にかけての時期の有力者の墓と考えられます。
ヲサル山遺跡の鉄釧と勾玉