市内の古代遺跡

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 市内の代表的な奈良・平安時代の集落遺跡を列挙すると、市域北東部、古代の印旛沼沿岸地域に当たる保品には上谷遺跡・栗谷遺跡、同じく神野には向境(むかいさかい)遺跡・境堀遺跡などがあります。新川中流東岸の村上には、村上込の内遺跡・殿内(とのうち)遺跡・浅間内遺跡などがあります。新川中流の西岸の萱田には萱田遺跡群として権現後遺跡・北海道遺跡・井戸向遺跡・白幡前遺跡などがあります。

上谷遺跡

 上谷遺跡・栗谷遺跡は、253,300m2の発掘調査で竪穴住居254軒、掘立柱建物207棟を検出しました。上谷遺跡の掘立柱建物は一部が「コ」の字状に並んでおり、役所的な性格を帯びた建物であった可能性があります。向境遺跡・境堀遺跡は、31,636m2の発掘調査で竪穴住居82軒、掘立柱建物45棟を検出しました。村上込の内遺跡は約60,000m2の発掘調査で、竪穴住居155軒、掘立柱建物24棟を検出しました。萱田遺跡群では、約500,000m2を発掘調査し、竪穴住居562軒、掘立柱建物222棟を発見しました。特に白幡前遺跡は竪穴住居265軒、掘立柱建物150棟を検出し、遺跡群の中心的集落です。
 これらの集落遺跡は、8世紀前半~10世紀後半の範囲内に営まれ、概ね8世紀後半から9世紀前半頃が最盛期であり、9世紀後半以降は急速に衰退します。このようなあり方は、養老7年(723)の「三世一身法」や天平15年(743)の「墾田永世私財法」により、8世紀以降、土地の私有が認められたということが背景にあったのかもしれません。開墾を奨励するための施策ですが、これにより律令制の原則である公地公民制が崩れて行きます。
 各遺跡では、2~9ヶ所の遺構の分布のまとまりが見られ、そのまとまりは特定集団が数世代にわたって一定の場所に住んだことを示しています。これを「単位集団」として捉え、文献上の「戸」や「郷戸」との関連が考察されています。