檀家総代(だんかそうだい)には代々伝わる『村上正覚院釈迦如来縁起』(巻子本(かんすぼん))が残されています。この縁起の成立は、木造釈迦如来立像の修理が行われた延宝(えんぽう)2年(1674)であり、正覚院の創建年と考えられている保元(ほうげん)年間(1156-1158)の頃ではありません。そのため、縁起に書かれたことが必ずしも史実を伝えるものではありませんが、鎌倉時代の武士の館の存在が確認されていますので、保元年間までさかのぼれないにしても、鎌倉時代ごろには仏像に関する何らかの建物があったと考えられます。
縁起は①釈迦如来立像のいわれ②寺のはじまり③仏像の修理の3つを伝えています。
①釈迦如来立像のいわれは、清和天皇(在位858~876)の御代(みよ)に釈迦如来立像の首が印旛沼に降りたったことから始まります。その頃、智証大師(ちしょうだいし)の夢に金色の如来が現れて大師に告げます。「私は毘首羯磨天(びしゅかつまてん)(帝釈天の命を受けて建築彫刻を司る神匠(しんしょう))が造る釈迦で、衆生(しゅじょう)を導こうと日本まで飛んで来た、あなたは学が高いだけでなく仏像を造ることも巧みである、我が身を造りなさい」と。そのお告げを受けて大師は関東に向かいました。人々から如来の首を授かり、まさしく夢の中で対面した如来に間違いないと智証大師が仏像を造ろうと小刀をとろうしたところに、子どもが突然あらわれました。子どもは「私は仏工(ぶっこう)で、大師の志の深さを感じたので、私も仏像を造ることを手伝わせてほしい」と言うと、大師は喜んでともに仏像を造りました。まもなく仏像が出来上がると、子どもは大師に告げました。「私は毘首羯磨天で、今造り上げた仏像は昔、天竺で優填王が(うでんおう)釈迦の姿を写したときに、試しに造った首です」と。この首が印旛沼に降りたというのです。毘首羯磨天はかねてからの望みが叶い、満足した様子で消えるように去っていきました。この首ははじめ保科(ほしな)村(現保品)にありましたが、保元年中に平入道真円(たいらのにゅうどうしんえん)が鴨鴛寺を建立し、そこに安置したということです。
②おしどり寺として有名になった寺のはじまりは次のように伝えられています。殺生を好んで行っていた真円という者が、ある日阿蘇沼でオシドリを射殺しました(1)。
おしどり伝説(1)
その晩、美しい女性が現れ、真円に向かって夫を殺したと告げますが、覚えのない真円はそれを否定します。女性がなおも責めたので、真円は言い争いましたが、女性は「日くるれば誘ひしものを阿蘇沼のまこもかくれの一人寝ぞうき」と詠んで去って行きます(2)。夜が明けると、昨日真円が射殺したオシドリの横で雌鳥のオシドリが嘴(くちばし)を合わせて死んでいました(3)。昨日の女性が射殺したオシドリの妻であったと知った真円はオシドリ夫婦の愛情に感じ入り、出家遁世(とんせい)を決め、池のほとりに庵(いおり)を結び、池證山鴨鴛寺と号しました。
おしどり伝説(2)
おしどり伝説(3)
③仏像の修理では、2回行われた修理の様子が記されています。一回目は天文(てんぶん)15年(1546)、源太郎と平胤広(たいらのたねひろ)が鎌倉の仏師大蔵長盛(おおくらながもり)をやとって再興しました。二回目はその130年後にあたる延宝2年、堂塔が破損したため、村の人々が力を合わせて、京の仏師田村式部(たむらしきぶ)を招いて修理しました。
縁起は①釈迦如来立像のいわれ②寺のはじまり③仏像の修理の3つを伝えています。
①釈迦如来立像のいわれは、清和天皇(在位858~876)の御代(みよ)に釈迦如来立像の首が印旛沼に降りたったことから始まります。その頃、智証大師(ちしょうだいし)の夢に金色の如来が現れて大師に告げます。「私は毘首羯磨天(びしゅかつまてん)(帝釈天の命を受けて建築彫刻を司る神匠(しんしょう))が造る釈迦で、衆生(しゅじょう)を導こうと日本まで飛んで来た、あなたは学が高いだけでなく仏像を造ることも巧みである、我が身を造りなさい」と。そのお告げを受けて大師は関東に向かいました。人々から如来の首を授かり、まさしく夢の中で対面した如来に間違いないと智証大師が仏像を造ろうと小刀をとろうしたところに、子どもが突然あらわれました。子どもは「私は仏工(ぶっこう)で、大師の志の深さを感じたので、私も仏像を造ることを手伝わせてほしい」と言うと、大師は喜んでともに仏像を造りました。まもなく仏像が出来上がると、子どもは大師に告げました。「私は毘首羯磨天で、今造り上げた仏像は昔、天竺で優填王が(うでんおう)釈迦の姿を写したときに、試しに造った首です」と。この首が印旛沼に降りたというのです。毘首羯磨天はかねてからの望みが叶い、満足した様子で消えるように去っていきました。この首ははじめ保科(ほしな)村(現保品)にありましたが、保元年中に平入道真円(たいらのにゅうどうしんえん)が鴨鴛寺を建立し、そこに安置したということです。
②おしどり寺として有名になった寺のはじまりは次のように伝えられています。殺生を好んで行っていた真円という者が、ある日阿蘇沼でオシドリを射殺しました(1)。
おしどり伝説(1)
その晩、美しい女性が現れ、真円に向かって夫を殺したと告げますが、覚えのない真円はそれを否定します。女性がなおも責めたので、真円は言い争いましたが、女性は「日くるれば誘ひしものを阿蘇沼のまこもかくれの一人寝ぞうき」と詠んで去って行きます(2)。夜が明けると、昨日真円が射殺したオシドリの横で雌鳥のオシドリが嘴(くちばし)を合わせて死んでいました(3)。昨日の女性が射殺したオシドリの妻であったと知った真円はオシドリ夫婦の愛情に感じ入り、出家遁世(とんせい)を決め、池のほとりに庵(いおり)を結び、池證山鴨鴛寺と号しました。
おしどり伝説(2)
おしどり伝説(3)
③仏像の修理では、2回行われた修理の様子が記されています。一回目は天文(てんぶん)15年(1546)、源太郎と平胤広(たいらのたねひろ)が鎌倉の仏師大蔵長盛(おおくらながもり)をやとって再興しました。二回目はその130年後にあたる延宝2年、堂塔が破損したため、村の人々が力を合わせて、京の仏師田村式部(たむらしきぶ)を招いて修理しました。