清凉寺式釈迦如来立像

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 この釈迦如来立像は、京都嵯峨(さが)の清凉寺(せいりょうじ)に伝わる釈迦如来立像と同じ形式の姿に写す模刻像で、清凉寺式釈迦如来立像といいます。
 今に残る清凉寺式釈迦如来立像はかつて律宗(りっしゅう)系の寺院であったことを物語っています。ではどのような時代の流れから正覚院の釈迦如来立像が造立されたのでしょうか。
 平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて様々な新仏教が登場しました。法然の浄土宗(じょうどしゅう)や法然の弟子である親鸞(しんらん)の浄土真宗(じょうどしんしゅう)、踊り念仏で教えを広めた一遍(いっぺん)の時宗(じしゅう)といった宗派です。中国からは栄西による臨済宗(りんざいしゅう)と道元(どうげん)による曹洞宗(そうとうしゅう)の禅宗(ぜんしゅう)が伝えられました。さらに日蓮(にちれん)によって日蓮宗(法華宗(ほっけしゅう))が開かれました。
 これに対抗して奈良・平安時代以来の旧仏教も活発な宗教活動を展開しました。その代表が律宗です。厳しい戒律(かいりつ)(仏教者が守るべき決まり)をかたく守って実践することを目指す宗派で、奈良時代に唐(中国)から来日した鑑真(がんじん)を祖とします。鎌倉時代にあらわれた叡尊(えいぞん)は大和の西大寺(さいだいじ)(奈良市)を中興して、「殺生禁断(せっしょうきんだん)」を唱え、社会事業に力を尽くしたので人々の尊敬を集めました。
 叡尊の弟子である忍性(にんしょう)はハンセン病患者の救済施設である北山十八間戸(きたやまじゅうはっけんど)(奈良市)を創設したことでも知られています。忍性は建長(けんちょう)4年(1252)に関東に下り、常陸の三村山清冷院(みむらさんせいりょういん)極楽寺(ごくらくじ)(茨城県つくば市)に入って関東布教の拠点としました。しばしば鎌倉を訪れて執権北条時頼(ときより)をはじめとする北条一門の帰依(きえ)を受けました。
 金沢文庫を開いた実時(さねとき)は叡尊を鎌倉へ招きます。叡尊は固辞したものの、時頼の強い要請もあり、関東に下ることになりました。弘長(こうちょう)2年(1262)に鎌倉に到着した叡尊を実時は称名寺(しょうみょうじ)に迎えようとしますが叡尊はこれを断ります。実時は無縁の堂を見つけて叡尊に「ここは以前ある上人が建てたものですが、京都嵯峨の清凉寺の釈迦像を模して刻んだ仏像を安置した所なので新清凉寺といいます」と紹介したそうです。叡尊はこの釈迦堂へ移りましたが、この段階で清凉寺式釈迦如来像と律宗との結びつきがあったことがわかります。
 その後も北条一門と叡尊・忍性ら西大寺流の律宗との結びつきは深くなり、「金沢文庫文書」には千葉から印旛沼を経て利根川に至るルート上に律宗系寺院が多くみられます。

清凉寺釈迦如来立像