釈迦如来立像の解体修理

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 正覚院縁起でも触れましたが、釈迦如来立像は天文15年と延宝2年に修理が行われたことが分かっています。このことは胎内納入(たいないのうにゅう)の銘札(めいさつ)にも残されています。また昭和53年には解体修理を行い、同時に釈迦堂も修理しました。
 延宝2年の銘札には「潤色(じゅんしょく)」とあり、衣に施された截金文様(きりかねもんよう)はこのときのものとみられます。さらに同修理では、厨子(ずし)(仏像を安置する仏具)を造り、釈迦堂を建立し、巻子本の縁起を書くなど、大がかりな再興がなされたようです。また、その他にも釈迦如来像の胎内に県指定文化財の舎利塔(しゃりとう)、文書などを納入したのもこの時期です。
 厨子の扉の裏側には銘文があり、銘札には願主(がんしゅ)として武州三輪村(東京都台東区三ノ輪付近もしくは町田市三輪)の霊吟寺(りょうぎんじ)門弟の一人名しか見えないですが、施主(せしゅ)に「村上村男女」とあり、村上の人々が関わったとわかります。
 昭和53年の修理では、本体の現状を確認した後、ゆるんでいた矧目(はぎめ)を補強し、欠損部分を補修しました。補修部の截金部分は金箔、金泥(きんでい)で補修し、その他の補修箇所は古色(こしょく)仕上げとしました。さらに失われていた白毫を新しく補いました。この解体修理により、本像の構造などが解明し、鎌倉時代の清凉寺式釈迦如来像の一典型としての重要性が確認でき、以後長く保存できるようになりました。

昭和53年の解体修理の様子