正覚院の関係資料

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 正覚院には釈迦如来立像の他にも様々な資料が残されています。
 釈迦堂と厨子は八千代市の文化財に指定されています。厨子の内扉に延宝2年の銘があり、釈迦堂も同時代の建立であると考えられます。
 本堂西側の高台には、市の指定文化財である石造宝篋印塔とその隣には五輪塔があり、武蔵式の板碑(いたび)も完形ではないながら、境内や本堂の床下から十数例発見されています。

宝篋印塔(左)と五輪塔(右) 宝篋印塔は八千代市指定文化財

 宝篋印塔は本来、宝篋印陀羅尼を納める塔でしたが、後に供養塔、墓碑塔(ぼひとう)として用いられるようになりました。主に石で小規模のものが造られます。正覚院の宝篋印塔は当初の塔身(とうしん)と相輪(そうりん)部が失われていますが、基部の銘文によると、応永(おうえい)18年(1411)妙吽(みょううん)という女性の三十三回忌の供養のために子どもたちが造ったことがわかります。現在は平成8年に新規に造られた塔身と相輪を補っています。笠部(かさぶ)の隅飾(すみかざり)が外側を開いていることから、この部分も本来のものではなく、江戸時代頃に他の宝篋印塔の笠部を補っていた可能性が指摘されています。八千代市内でもっとも古い宝篋印塔です。
 また、青銅製の水甁(すいびょう)が本堂の基壇(きだん)より発見され、骨蔵器(こつぞうき)として用いられていた常滑(とこなめ)の壺も発見されました。どちらも中世にさかのぼれるものであり、正覚院が中世に寺として機能していたことがうかがえます。

青銅製水甁


常滑壺

 これらの資料の他に、市内で初めて確認された蝶型蓮座板碑(ちょうがたれんざいたび)や県内で他に見られない銅製の花瓶(けびょう)が出土されています。また現在の本堂が建っている位置に建物があることがわかっていて、本堂背後には深いV字形の薬研堀(やげんぼり)があるなど、中世の武士の館の面影が遺されています。この館は天文15年の銘札にある平胤広の名から千葉氏一族の館であったと考えられています。
 正覚院は明治41年まで村上小学校として使われていた歴史もあります。様々な歴史と文化財が残る正覚院は八千代の大事な名刹です。