村上山永昌寺開基之事(個人蔵)
上総国(かずさのくに)の村上城跡(市原市)にある永昌寺(えいしょうじ)は村上山永昌寺と称する曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院です。
江戸時代初期の慶安(けいあん)2年(1649)に寺社奉行(じしゃぶぎょう)に提出した寺の縁起(えんぎ)によれば、応永(おうえい)15年(1408)に村上民部大輔清次(みんぶのたいふきよつぐ)が建立(こんりゅう)し、明岳和尚(めいがくおしょう)が開山したと記されています。その後、民部大輔の11代後裔(こうえい)の村上信濃守清正(しなののかみきよまさ)がこの地に住したとあります。『市原郡誌(いちはらぐんし)』によれば、大永(たいえい)元年(1521)村上周防守義清(すおうのかみよしきよ)が村上の領主であったとあり、『上総国町村誌(かずさのくにちょうそんし)』には、同じく大永元年の領主に、村上大蔵大輔義芳(おおくらのたいふよしふさ)の名が見えます。
また、昭和61年に行なわれた市原市の発掘調査によって、村上城の範囲と考えられる場所から中世の陶器類が数多く出土し、堀や土塁(どるい)も確認されています。
これらのことから、室町時代には上総国府内(かずさこくふない)とされる土地の一部が、村上氏の領地として開発され、その後、戦国時代には村上城が整備されて上総村上氏の拠点となっていた可能性があり、綱清が米本城に入る前の本拠地であったとも考えられます。
上総村上氏は、古くは鎌倉時代後半には上総の足利氏所領を管理する奉行人として村上助房(すけふさ)の名が見え、他にも村上式部大夫(しきぶたいふ)(源清)、村上民部丞(みんぶのじょう)らの存在が古文書に認められます。