諏訪神社縁起(品野家蔵)
市原市五井品野(ごい)の(しなの)家に伝わる諏訪(すわ)神社縁起(えんぎ)です。品野家は戦国期は上総国村上の諏訪大明神(すわだいみょうじん)の神主であったと伝えられます。
縁起によれば、大永(たいえい)年間に信濃国(しなののくに)に村上義清が領地を与えられ、信濃村上氏の基盤を築きます。甲斐国(かいのくに)の武田信玄(たけだしんげん)と戦(いくさ)となり、義清は越後(えちご)(新潟)に逃れます。後に和睦(わぼく)した義清は郎党(ろうとう)を引き連れ、村上氏縁(ゆかり)の上総国(かずさのくに)へ来て在城します。義清は信濃へ使いを送って諏訪大明神(すわだいみょうじん)を勧請(かんじょう)(神霊を別の場所に分霊して祀ること)します。その際に信濃から神主の末弟(まってい)を召し連れ、信濃関(しなのぜき)と改名させ代々仕えたとあります。年号は天文(てんぶん)元年(1532)と記されており、義清31歳の時の出来事になります。義清は同年に本拠地である信濃葛尾城(しなのかつらおじょう)の守護神、坂木大宮(さかきおおみや)(坂城神社)にも120貫文(かんもん)の寄進(きしん)をしている記録があり、諏訪大明神の上総への勧請との関連も考えられます。
また、千葉市浜野に鎮座する諏訪神社の由緒によると、大永(だいえい)元年(1521)、市原郡養老庄(ようろうのしょう)の領主となった坂木(長野県坂城町)の村上周防守(すおうのかみ)義清が、諏訪大明神を勧請するため、重臣の高沢堅物(けんもつ)を遣わし、神主の弟、黒川左近(さこん)を同道して帰途に付き、浜野に止宿(ししゅく)した縁で祭神を分祀(ぶんし)したと伝えています。
以上のことから、上総村上氏と信濃村上氏は、何らかの関係があった可能性も考えられ、今後の研究により、両村上氏の関係が明らかになることが期待されます。