綱清はいつ米本城に入ったのか?

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 綱清はこれまでの研究で、永禄(えいろく)3年(1560)から天正(てんしょう)3年(1575)頃まで古文書(こもんじょ)からその足跡(そくせき)を追うことができ、上総国(かずさのくに)村上(市原市)を拠点とし、小弓(おゆみ)城主原胤貞(はらたねさだ)との関係が深いことがわかります。永禄12年(1569)5月に胤貞が死去すると、安房(あわ)の里見(さとみ)氏と小田原北条氏との戦いが小弓城付近で多くなり、荒廃した領地を憂いた子の胤栄(たねよし)は、元亀(げんき)元年(1570)父、胤貞が臼井(うすい)氏より奪った臼井城へ遷(うつ)ります。この時、原氏と主従(しゅじゅう)の関係となっていた村上綱清も原主従の勢力である臼井衆(うすいしゅう)の一員となった可能性があり、臼井城の西の守りである米本城を任されたと考えられます。
 天正3年(1575)以降、綱清の名は文書(もんじょ)に見られなくなり、代わって村上助三郎胤遠(すけさぶろうたねとう)という、子と思われる人物が文書に現れるようになることから、綱清が家督(かとく)を譲った可能性があります。胤遠の胤の字は、仕えていた原胤栄の胤の一字を賜ったと考えられます。天正5・6・10年の年始には、胤遠は古河公(こがくぼう)方足利義氏(よしうじ)に馬の鞍(くら)や太刀(たち)などを、市原の同郷の大坪(おおつぼ)新十郎と共に贈っています。
 綱清や胤遠のその後や、胤遠は米本城に入ったのか、またいつまで村上氏が米本城にいたのかは、現在のところ史料が見つかっていません。
 天正18年(1590)、小田原北条氏は、豊臣秀吉との戦に備え、配下であった他国衆(たこくしゅう)の千葉・原・高城(たかぎ)等の諸将に小田原城への参陣を命じます。しかし当主、北条氏直(うじなお)は秀吉軍に降伏し、北条氏を始め、千葉・原・高城の各氏も所領を没収され、德川家康の支配下となり、臼井城には家臣の酒井家次(いえつぐ)が入りました。米本城もこの頃に役目を終え、廃城になったものと思われます。

米本城跡

村上綱清関連年表
文明11年
(1479)
太田道灌の弟、図書助資忠が臼井城攻めを行う(飯綱砦跡伝説)
永禄3年
(1560)
綱清、市原の所領を北条家より賜る(下総旧事)
永禄7年
(1564)
綱清の主君である小弓城主原胤貞、臼井氏の臼井城を手中に収める
永禄9年
(1566)
上杉謙信、臼井城攻めを行う
綱清、木更津妙泉寺の所領を安堵する
元亀元年
(1570)
小弓城主原胤栄、臼井城へ遷る
綱清、この頃米本城に入るか
天正3年
(1575)
綱清、土気城攻めに参戦し、その功で古河公方足利義氏から感状を賜る
天正5年
(1577)
綱清の子と思われる助三郎胤遠、足利義氏に正月の贈答
天正17 年
(1589)
臼井城主原胤栄死去(39歳)傍系の森山城(小見川町)城主原邦くにふさ房、城主となる
天正18 年
(1590)
秀吉の小田原北条氏攻めにより千葉氏・原氏滅亡 この頃米本城廃城か