印旛沼堀割普請(いんばぬまほりわりふしん)よりも以前の様子について、『千葉縣印旛郡誌』には、阿蘇沼(あそぬま)から印旛沼に注ぐ所がありと記述され、古川が流れていたことが推定できます。次第に、阿蘇沼の水が涸(か)れ、江戸時代には古川として残りました。源流は、勝田川と高津川で、現在の大和田機場周辺で合流し、印旛沼に流れていました。流路の一部が「天保七年米本(よなもと)村絵図」からわかり、村の西寄りに、南北を縦断する緩やかな曲線で「新川」が描かれ、古川は「新川」の周辺を蛇行(だこう)するように白と黒の境界線で記されています。
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(天明(てんめい)期)からは、古川(勝田川)と花見川(千葉市)が繋(つな)がっていないことがわかり、房州浦海(東京湾)に水が流れていませんでした。
一方、寛永(かんえい)18年(1641)、幕府は利根川東遷(とねがわとうせん)を実施し、大水上山(おおみなかみやま)(郡馬県他)を源流とする水を銚子に向け太平洋に流すようにしました。印旛沼と利根川が結ばれ、利根川の水も印旛沼に流れるようになったため、関東平野を中心に大降雨に見舞われ利根川が満水になると、印旛沼が満水となり、沼周辺の村々は水害に遭(あ)い、さらに市域を流れる古川は、印旛沼から逆流した水で満たされ、村々の田畑を水没させました。
こうした状況を江戸時代中期に見ていた人物が、平戸(ひらと)村の染谷源右衛門(そめやげんえもん)でした。
天保七年米本村絵図(当館蔵) 八千代市指定文化財
「下総国印旛沼御普請堀割絵図」(天明(てんめい)期)からは、古川(勝田川)と花見川(千葉市)が繋(つな)がっていないことがわかり、房州浦海(東京湾)に水が流れていませんでした。
一方、寛永(かんえい)18年(1641)、幕府は利根川東遷(とねがわとうせん)を実施し、大水上山(おおみなかみやま)(郡馬県他)を源流とする水を銚子に向け太平洋に流すようにしました。印旛沼と利根川が結ばれ、利根川の水も印旛沼に流れるようになったため、関東平野を中心に大降雨に見舞われ利根川が満水になると、印旛沼が満水となり、沼周辺の村々は水害に遭(あ)い、さらに市域を流れる古川は、印旛沼から逆流した水で満たされ、村々の田畑を水没させました。
こうした状況を江戸時代中期に見ていた人物が、平戸(ひらと)村の染谷源右衛門(そめやげんえもん)でした。
天保七年米本村絵図(当館蔵) 八千代市指定文化財