享保(きょうほう)7年(1723)7月、日本橋に新田開発の高札(こうさつ)が掲げられ、下総国千葉郡平戸村の染谷源右衛門らは、享保9年8月、印旛沼の新田開発を幕府に願い出ます。幕府は普請を見積もる役人として、井沢為永(ためなが)(勘定奉行下役)らを派遣し、堀割筋の長さと面積、人足数と費用などを調査させました。
源右衛門は井沢の調査結果にもとづき普請を請(う)け負(お)い、幕府から数千両の資金提供を受け、同志とともに着手しましたが、堀割筋の屈曲が激しいため、水を落とせず、さらに幕府から受けた資金では足らず、源右衛門らも資金を注ぎ込みましたが、7~8名の同志とともに多額の負債を抱えてしまい、普請は中止になりました。
下総国印旛沼御普請堀割絵図(個人蔵) 八千代市指定文化財
源右衛門は井沢の調査結果にもとづき普請を請(う)け負(お)い、幕府から数千両の資金提供を受け、同志とともに着手しましたが、堀割筋の屈曲が激しいため、水を落とせず、さらに幕府から受けた資金では足らず、源右衛門らも資金を注ぎ込みましたが、7~8名の同志とともに多額の負債を抱えてしまい、普請は中止になりました。
下総国印旛沼御普請堀割絵図(個人蔵) 八千代市指定文化財