継続される印旛沼堀割普請~天明期~

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 享保期に中止になった印旛沼堀割普請が、天明(てんめい)2年(1782)から、老中田沼意次(おきつぐ)のもとで始められることになり、準備として安永(あんえい)9年(1780)8月と10月、天明元年8月に島田村名主治郎兵衛(じろべえ)らから幕府代官宮村高豊(たかとよ)に、堀割普請を含む印旛沼開発のための目論見(もくろみ)書(計画書)を提出させます。目論見書には、平戸橋から始まる普請内容と費用、利点、人足数と賃金、堀床などが記され、堀割筋は直線的に掘り直し、水を落としやすくする計画でした。

神野村絵図(個人蔵)

 天明元年9月、金主(きんしゅ)の大坂天王寺屋(てんのうじや)らとの間で、開発新田の取り分が決められ、堀割普請は、天明2年に鍬入(くわい)れとなると、下市場(しもいちば)村に設けられた幕府の新開掛役所(開発担当役所)には、請け負いを願う人々が殺到しましたが、翌年7月に浅間山が噴火し、火山灰などが堀割普請に影響を与えました。それでも普請を続ける幕府は、普請しやすい環境にするため、堀割筋を含む村々を幕府直轄(ちょっかつ)にします。その際に作成された村絵図が、神野(かの)村絵図です。
 堀割筋の村々を直轄地にして普請を進めましたが、天明6年5月からは雨が断続的に降り続き、普請所も壊滅的な打撃を受け、8月には老中田沼が失脚(しっきゃく)したことで、堀割普請は再び中止となりました。なお、中止後は幕府による潰地(つぶれち)の補償が行われ、治郎兵衛が仲介しました。