天保(てんぽう)14年(1843)、3回目の印旛沼堀割普請が、老中水野忠邦(ただくに)のもとで進められることになり、天保11~13年に勘定奉行らが印旛沼周辺を調査し、天保13年10月に柏井村と花島村(両村とも千葉市)の難所(なんしょ)で試掘(しくつ)が行われ、普請役格の二宮金次郎も加わりました。
調査の結果、普請費用は安く見積もって金15万両余と算出され、幕府にはその財力がなかったため、大名による手伝普請(てつだいふしん)(幕府が大名を対象に課す普請)で賄われることになりました。
天保14年6月、手伝普請の大名が決定し、平戸村の印旛沼口から横戸村(以下、検見川村まで千葉市)を沼津(ぬまづ)藩水野忠武(ただたけ)、横戸村から柏井村を庄内(しょうない)藩酒井忠発(ただあき)、柏井村から花島村を鳥取(とっとり)藩池田慶行(よしゆき)、花島村から畑村を貝淵(かいぶち)藩林忠旭(ただあき)、畑村から検見川村までを秋月(あきづき)藩黒田長元(ながもと)が担当することになりました。幕府側の責任者は、江戸南町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)らで、現場の治安維持や監督が主な任務でした。
各藩は普請人足を集めるために苦労し、国元から呼び寄せる百姓では足らず、黒鍬(くろくわ)人足を雇い入れました。「新川」普請担当の沼津藩は、距離が長いこともあり、人足1万人以上、黒鍬350人を必要としました。
黒鍬の図(複製)
天保14年7月18日、堀割普請の持ち場が幕府から各藩に渡され、23日に鍬入れとなり、工期10ヶ月の普請が開始され、水運の確保と水害の防止を目指しましたが、普請費用が嵩(かさ)み、堀床縮小の見積もりが提出され、工期を3ヶ月に短縮し、11月に普請を完了するよう命じられました。
しかし閏9月1日から翌日にかけて大風雨に見舞われ、各藩の元小屋(もとこや)や普請所が破壊され、堀割には大量の土砂や水が流入し、大きな打撃を受けました。また江戸城内では、上知令(江戸周辺の幕領化政策)をめぐり、強行に推進する老中水野が苦境に立たされたうえ病気を患(わずら)い、閏9月13日に老中を罷免ひめん(ひめん)されました。
調査の結果、普請費用は安く見積もって金15万両余と算出され、幕府にはその財力がなかったため、大名による手伝普請(てつだいふしん)(幕府が大名を対象に課す普請)で賄われることになりました。
天保14年6月、手伝普請の大名が決定し、平戸村の印旛沼口から横戸村(以下、検見川村まで千葉市)を沼津(ぬまづ)藩水野忠武(ただたけ)、横戸村から柏井村を庄内(しょうない)藩酒井忠発(ただあき)、柏井村から花島村を鳥取(とっとり)藩池田慶行(よしゆき)、花島村から畑村を貝淵(かいぶち)藩林忠旭(ただあき)、畑村から検見川村までを秋月(あきづき)藩黒田長元(ながもと)が担当することになりました。幕府側の責任者は、江戸南町奉行鳥居耀蔵(ようぞう)らで、現場の治安維持や監督が主な任務でした。
各藩は普請人足を集めるために苦労し、国元から呼び寄せる百姓では足らず、黒鍬(くろくわ)人足を雇い入れました。「新川」普請担当の沼津藩は、距離が長いこともあり、人足1万人以上、黒鍬350人を必要としました。
黒鍬の図(複製)
天保14年7月18日、堀割普請の持ち場が幕府から各藩に渡され、23日に鍬入れとなり、工期10ヶ月の普請が開始され、水運の確保と水害の防止を目指しましたが、普請費用が嵩(かさ)み、堀床縮小の見積もりが提出され、工期を3ヶ月に短縮し、11月に普請を完了するよう命じられました。
しかし閏9月1日から翌日にかけて大風雨に見舞われ、各藩の元小屋(もとこや)や普請所が破壊され、堀割には大量の土砂や水が流入し、大きな打撃を受けました。また江戸城内では、上知令(江戸周辺の幕領化政策)をめぐり、強行に推進する老中水野が苦境に立たされたうえ病気を患(わずら)い、閏9月13日に老中を罷免ひめん(ひめん)されました。